雲雀病院
原民喜
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(例)※[#「纏のまだれに代えてがんだれ」、421−8]
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銀の鈴を振りながら、二頭の小山羊は花やリボンで飾られてゐる大きな乳母車を牽いて行つた。その後には、青い服を※[#「纏のまだれに代えてがんだれ」、421−8]つた鳩のやうな婦人がもの静かに従いて歩いた。むかうの峰には乳白色の靄がかかつてゐたが、こちらの空は真青に潤んでゐた。澄んだ空気の中に草の芽や花の蕾の匂ひが漾つて、しげみの中では鶯が啼いてゐる。
車のバネの緩い動揺や、鈴の音に、すやすやと睡つてゐた空二は、ふと眼を見開いた。それから、車のすぐ側に見識らぬ婦人がゐるのを、ぼんやり見てゐた。が、やがて再び目蓋を閉ぢてしまつた。しばらくすると、空二は唇をむちやむちや動かしながら両手を伸ばした。そして今度はほんとうに目が覚めたらしかつた。彼は何時ものやうに煙草を吸はうと思つて、無意識にあたりを手探つた。が、彼の指さきに掴まつたものはキヤラメルの函であつた。彼はつまらなさうにその函を放つた。それから再び狭い車内を探してゐると、漫画の本が出て来た。彼はそれを膝の上に展げてちよつと見入つてゐたが、すぐに、にやにや笑ひだした。それから、ふと見識らぬ婦人が側にゐるのを思ひ出した。すると彼は妙に気恥しくなつた。空二は漫画の本を横に隠して、顔を婦人の方へ向けた。空二の眼に好色的な輝きが漲つて来たが、婦人は清浄無垢の表情をしてゐる。
いささか勝手が違ふので空二は不審げにその女を視凝めた。視てゐるうちに彼の心は和んで、婦人の善良な魂がほほゑみかけて来るやうに思へた。空二は苦々しげに眉を顰めた。すると、今迄車の柄に手を掛けながら心もすずろに眩しさうな顔つきで歩いてゐた婦人が、はじめて乳母車の中の空二に眼を注いだ。
「お目ざめになりました、空二さん」
婦人のその声は幼児を恍惚とさすやうな響をもつてゐた。空二はかすかに聞き憶えのある声のやうにおもへたが、誰だつたのか思ひ出せなかつた。そして、今この女から嬰児をあやすやうな態度をとられたことが、少し気に喰はなかつた。
空二は露骨に不快な表情を作るため唇をゆがめようとした。と、歪みかけた唇から、たらたらとよだれが零れた。はつとして襟許を視ると、彼の首にはちやんとビロウドの縁のついた涎掛がつけてあつた。そればかりではなかつた。彼は緑と黄の毛糸の子供服を着せられてゐるのに気附いた。すると、空二は今にも背髄の方から一種の痙攣が始まりさうな気がした。彼はその車から飛上つて、滅茶苦茶に暴れ出したい衝動が蠢いた。彼の眼は青く戦いた。しかし、彼の体のうちに始まりかけた痙攣はピクリと彼の指さきを戦かせただけで、やがて曖昧に消えて行つた。彼はぐつたりとクツシヨンの方へ頭を埋めた。
「まだお眼がよく覚められないのですね」と、婦人は面白さうに彼の顔を見守つて笑つた。
「ああ」と、空二は奇妙な声を出して唸つた。いつもの自分の声とはまるで違つてゐるやうであつた。彼は指で眼を小擦つて、もう一度あたりを改めて見廻した。乳母車の幌からは幾すぢものリボンが吊されて、それに造花や薬玉が結んであるのが、ぶらぶら揺れてゐる。それを見てゐると、何だかまた腹立たしくなつて来た。よくは呑込めなかつたが、どうも自分をこんな目に逢はせてゐるのは、今彼を運んでゆく女の所為のやうに思へた。空二は婦人にむかつて抗議しようと頭のなかであせつた。が、いつもなら、すぐに浮んで来る筈の言葉が今はさつぱり思ひ浮ばなかつた。
「煙草をくれませんか」彼はまるで別のことを喋つてしまつた。
「煙草、そんなものをどうなさるのです」
「無かつたのかなあ、つまらないなあ」と、彼は残念さうに自分の頬をさすつた。
「煙草はいけません、それに火があぶなう御座いますよ」
婦人は親切げにつけ加へた。彼はふと苦笑したくなつた。ところが、どういふものか突然、大きな声をあげて叫び出した。
「煙草をおくれ、煙草をおくれ」
さうして、空二はだだをこねる子供のやうに頭を左右に振つてゐた。
「いいえ、煙草はいけません、そのかはりこれを差上げませう」
婦人はさつき空二が放つたキヤラメルの函を取上げて、その中から一つキヤラメルを摘み、空二の唇許へ持つて来た。空二は口を頑に噤んで頤を左右に振つた。
「ねえ、空二さんは賢いお方でせう、そんな意地張りをなさるものではありません。ほうら、この紙の中からこんなものが出て来ましたよ。これをあなたの口の中につるつと入れてみませう」
空二は何時の間にかおとなしくなつて、口の中にキヤラメルを入れられてゐる自分を見出した。それから暫くすると、彼は自分の舌を怪しむやうに眼を瞠つてゐたが、やがてうまさうに夢中で口を動かしだした。婦人は幸福さうな微笑を湛へてぢつと彼を見守つた。その顔を空二はぽかんと見上げてゐた。
「そら、あなたはすつかり素直になられましたわね……」と、婦人は嬉しげに空二に話しかける。
しかし、空二はやはり解せない気持であつた。自分がこの女から奇妙な取扱を受けながら、それを拒絶する力がもう無くなつてゐるのを、纔かに訝るばかりであつた。さきほどから背筋の方をまた痙攣の兆候が緩く流れてゐるのが感じられた。彼は水底に没してゆく者のやうな眼つきをした。痙攣は今度もわづかに眉を戦かせただけで終つた。それが終ると、空二はぞつとしたやうな顔つきで溜息をついた。
「おや、そんな淋しさうなお顔なさつて、どうしたのです」
婦人は心配さうに空二を視つめた。さうされると彼は妙に悲しくなつて、喘ぐやうに訴へた。
「水をくれ、水を」
「まあ、咽喉が渇いたのですかさうですか」
婦人は乳母車の行手を見やつてゐたが、はたと晴れやかな顔をした。
「そら、もう少し行くと向に谷川が流れてをります。あそこまで行つたら水を飲みませうね」
しかし空二は一そう顔を曇らせた。
「まあ、お可哀相に、そんなに咽喉が渇いてゐたのですか、もう少しの間ですから辛抱なさいませ。そのかはりあの谷川のところへ着いたら、空二さんにお魚を釣つてあげますよ」
空二はあーんと泣き出した。大粒の涙がぼろぼろと鼻を伝はつて、涎掛に落ちて来る。あーん、あーんと、泣声の絶え間には、ふと、彼は自分の泣声を吟味するやうに聞いてゐた。しかし、これは女を瞞すための気どつた泣き方とは違つてゐるやうであつた。空二は泣きながら得態の知れぬ滑稽感が頭を持上げさうになるので、一層泣き募つた。これは結局、この女に甘えかかつた訳なのかしら、と彼はぼんやり考へだした。さうすると、いつの間にか空二は泣き歇んでゐた。号び泣きの余韻がまだ時々、身裡に脈を打つてゐたやうだが、気分はすつかり落着いて来た。一そのことこの女の思ひ通りになつてやらうかしら、と彼は自分に余裕を感じて考へた。
ふと、婦人の方を竊視ると、彼女は少し慍つたやうな顔つきで遠くを視つめてゐる。空二は急に萎れたやうな気持で俯向いた。それからまた婦人の方を見上げると、彼女は空二の視線を態と反してゐるやうに思へた。空二はいつまでも許しを乞ふ子供のやうにぢつと彼女を視つめてゐた。そのうちに、ちらつと彼女は空二の視線と逢つた、と思ふと彼女はにつこり笑つた。
「空二さんはお怜悧さんね」と婦人は優しく呟いた。
「少しのことが辛抱出来ないお方は駄目で御座いますよ。さあ、もう橋のところへ着きましたから、ここで暫く休みませう」
婦人は乳母車の先頭の方へ廻つて、二頭の小山羊を楓の根元に繋いだ。それから、彼女は渓流の方へ降りて行つた。
暫くすると彼女は掌に緑色のコツプと濡れたハンカチを持つて、乳母車の処へ戻つて来た。木の葉で拵へたコツプには綺麗な水がゆらいでゐる。彼女は黙つて空二の唇許へコツプを持つて行つた。空二はごくごくと咽喉を鳴らしながら飲んだ。婦人は満足さうに空二を眺めてゐたが、飲み了るとコツプを受取り、今度はハンケチを固く絞つた。
「さあ、お顔を綺麗にしませう」
婦人は空二の顔にハンケチをあてた。空二は顔を左右に振つてゐたが、婦人はすつかり彼の顔を拭き終つて、今、鼻腔の処へハンカチをあてがつた。
「さあ、ちゆん、とおつしやいませ」
空二は情なささうな顔で、婦人を見てゐた。
「ちゆん、とおつしやいませ、そら」
婦人の促す声で、空二はちゆんと鼻に力を入れた。と、彼女はすつぼり水洟を拭きとつた。暫く空二は感嘆に似た気持でぽかんとしてゐた。もう自分は完全にこの婦人に征服されてゐるらしかつた。しかし彼女は空二の感嘆にかかりあつてはゐなかつた。
彼女は乳母車の脇に手を入れて何か探してゐたが、間もなく子供靴と釣竿を取出した。
「さあ、ここで少し遊んで行きませう。お靴を穿かしてあげますから、空二さんも歩くのですよ」
空二は素直に頷いた。すると婦人は両手を伸ばして、空二を乳母車から抱へ上げようとした。彼は少し躊躇した。
「おや、どうしたのです」婦人は眼を円くして空二の顔を覗き込んだ。
「空二さんはお怜悧さんでせう」
婦人はまた両手を伸ばして空二を抱き上げようとする。たうとう空二は気まり悪げに乳母車の中に立上つた。すると彼女は空二を両腕に抱き上げ、「おお、空二さんは随分重たいこと」と、呟きながら道端の芝生のところへ運んで行つた。空二は彼女に運ばれてゆく間、ぢつと苦痛と快感の交はる感覚を堪へてゐた。
芝生の処へ空二を降ろすと、婦人は釣竿と靴を持つて来た。それから彼の足許に屈んで、靴のホツクを嵌めてくれたが、それが済むと彼女は上気した顔で立上つた。
「さあ、お魚を釣りに行きませう」と、婦人は空二の手を牽いて、橋のところまで来た。
「あなたはここで待つてゐらつしやい。今に大きなお魚を釣つてあげますよ」と、彼女は空二をひとり橋の上に残して、谷川の方へ降る細い路を降りて行つた。空二は橋の上から谷川の方を見下してゐると、やがて、渓流に臨んだ岩の上に彼女の姿は現れた。彼女は身軽さうに岩の端に立停まり、釣竿を降した。今、糸の垂れてゐる処から少し離れて、水がキラキラ輝いてゐる。彼女はそれを時折、眩しさうにしてゐたが、釣竿のさきに心は奪はれてゐるやうであつた。
ふと、空二は今のうちに何処かへ行つてしまはうかと思つた。さうすれば、あの婦人と自分はもう何のかかはりもなくなつてしまひさうだつた。しかし、何ものかが彼をいま引留めてゐるやうでもあつた。空二はそれに抗ふやうに五六歩、歩いてみた。
「空二さん、空二さん、釣れましたよ、そら」
何時の間にか婦人は空二の側に走り寄つてゐた。息を弾ませながら、彼女は糸のさきに跳ねる魚を空二の鼻さきに持つて来る。
「そら、ねえ、大きなお魚でせう」彼女は鉤を外して、掌に掴んだ魚を空二の方に差出した。
空二がおそるおそる掌を出すと、青い大きな魚は空二の掌に触つた瞬間ピリリと動いた。空二は吃驚して手を引込めた。魚は地上に墜ちて、ピンピン跳ね出した。眼も、腹も、砂まみれになつて、跳ねてゐる魚が、突然、空二を異常な恐怖に突落した。うわあ、と泣きながら、彼はガタガタ戦きだした。
「ああ、お魚が怕かつたのですか、それではもうこれは逃がしてやりませうね」
婦人は砂まみれの魚を水の中に放つた。しかし、空二はますます烈しく顫へて来た。「怕い、怕い」と、夢中で婦人に縋りついた。婦人は空二を抱き上げて、再び芝生のところへ運んで行つた。空二の顔は死人のやうに真白であつた。
「おお、可哀相に、暫くここでお休みなさい」と、婦人は膝の上に空二の頭を載せてやり、静かに頭髪を撫でてゐた。
「見える! 見える」と、空二はなほも口走つた。
「いいえ、もう見えは致しません。そら、眼を閉ぢて、静かに息をなさいませ。何にも、なんにも見えはしないでせう」
婦人の膝の温もりが、空二の頬に伝はつて来るに随つて、彼は次第に気が鎮まつて行つた。
「お可哀相に、あなたは大分神経
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