出した。それから暫くすると、彼は自分の舌を怪しむやうに眼を瞠つてゐたが、やがてうまさうに夢中で口を動かしだした。婦人は幸福さうな微笑を湛へてぢつと彼を見守つた。その顔を空二はぽかんと見上げてゐた。
「そら、あなたはすつかり素直になられましたわね……」と、婦人は嬉しげに空二に話しかける。
 しかし、空二はやはり解せない気持であつた。自分がこの女から奇妙な取扱を受けながら、それを拒絶する力がもう無くなつてゐるのを、纔かに訝るばかりであつた。さきほどから背筋の方をまた痙攣の兆候が緩く流れてゐるのが感じられた。彼は水底に没してゆく者のやうな眼つきをした。痙攣は今度もわづかに眉を戦かせただけで終つた。それが終ると、空二はぞつとしたやうな顔つきで溜息をついた。
「おや、そんな淋しさうなお顔なさつて、どうしたのです」
 婦人は心配さうに空二を視つめた。さうされると彼は妙に悲しくなつて、喘ぐやうに訴へた。
「水をくれ、水を」
「まあ、咽喉が渇いたのですかさうですか」
 婦人は乳母車の行手を見やつてゐたが、はたと晴れやかな顔をした。
「そら、もう少し行くと向に谷川が流れてをります。あそこまで行つたら水を
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