たら、その時、己は決然と命を捨てて戦ふことができるであらうか。……だが、この街が最後の楯になるなぞ、なんといふ狂気以上の妄想だらう。仮りにこれを叙事詩にするとしたら、最も矮小で陰惨かぎりないものになるに相違ない。……だが、正三はやはり頭上に被さる見えないものの羽撃《はばたき》を、すぐ身近かにきくやうなおもひがするのであつた。

 警報が解除になり、清二の家までみんな引返しても、正三はそこの玄関で暫くラジオをきいてゐることがあつた。どうかすると、また逃げださなければならぬので、甥も姪もまだ靴のままでゐる。だが、大人達がラジオに気をとられてゐるうち、さきほどまで声のしてゐた甥が、いつのまにか玄関の石の上に手足を投出し、大鼾で睡つてゐることがあつた。この起伏常なき生活に馴れてしまつたらしい子供は、まるで兵士のやうな鼾をかいてゐる。(この姿を正三は何気なく眺めたのであつたが、それがやがて、兵士のやうな死に方をするとはおもへなかつた。まだ一年生の甥は集団疎開へも参加出来ず、時たま国民学校へ通つてゐた。八月六日も恰度、学校へ行く日で、その朝、西練兵場の近くで、この子供はあへなき最後を遂げたのだつた。)
 ……暫く待つてゐても別状ないことがわかると、康子がさきに帰つて行き、つづいて正三も清二の門口を出て行く。だが、本家に戻つて来ると、二枚重ねて着てゐる服は汗でビツシヨリしてゐるし、シヤツも靴下も一刻も早く脱捨ててしまひたい。風呂場で水を浴び、台所の椅子に腰を下ろすと、はじめて正三は人心地にかへるやうであつた。――今夜の巻も終つた。だが、明晩《あす》は――。その明晩も、かならず土佐沖海面から始まる。すると、ゲートルだ、雑嚢だ、靴だ、すべての用意が闇のなかから飛ついて来るし、逃亡の路は正確に横はつてゐた。……(このことを後になつて回想すると、正三はその頃比較的健康でもあつたが、よくもあんなに敏捷に振舞へたものだと思へるのであつた。人は生涯に於いてかならず意外な時期を持つものであらうか)。

 森製作所の工場疎開はのろのろと行はれてゐた。ミシンの取はづしは出来てゐても、馬車の割当が廻つて来るのが容易でなかつた。馬車がやつて来た朝は、みんな運搬に急がしく、順一はとくに活気づいた。ある時、座敷に敷かれてゐた畳がそつくり、この馬車で運ばれて行つた。畳の剥がれた座敷は、坐板だけで広々とし、ソフアが一脚ぽつんと置かれてゐた。かうなると、いよいよこの家も最後が近いやうな気がしたが、正三は縁側に佇んで、よく庭の隅の白い花を眺めた。それは梅雨頃から咲きはじめて、一つが朽ちかかる頃には一つが咲き、今も六瓣の、ひつそりとした姿を湛へてゐるのだつた。次兄にその名称を訊くと、梔子《くちなし》だといつた。さういへば子供の頃から見なれた花だが、ひつそりとした姿が今はたまらなく懐しかつた。……
「コレマデナンド クウシウケイホウニアツタカシレナイ イマモ カイガンノホウガ アカアカトモエテヰル ケイホウガデルタビニ オレハゲンコウヲカカヘテ ゴウニモグリコムコノゴロ オレハ コウトウスウガクノケンキユウヲシテヰルノダ スウガクハウツクシイ ニホンノゲイジユツカハ コレガワカラヌカラダメサ」こんな風な手紙が東京の友人から久振りに正三の手許に届いた。岩手県の方にゐる友からはこの頃、便りがなかつた。釜石が艦砲射撃に遇ひ、あの辺ももう安全ではなささうであつた。
 ある朝、正三が事務室にゐると、近所の会社に勤めてゐる大谷がやつて来た。彼は高子の身内の一人で、順一たちの紛争《ごたごた》の頃から、よくここへ立寄るので、正三にももう珍しい顔ではなかつた。細い脛に黒いゲートルを捲き、ひよろひよろの胴と細長い面は、何か危なかしい印象をあたへるのだが、それを支へようとする気魄も備はつてゐた。その大谷は順一のテーブルの前につかつかと近よると、
「どうです、広島は。昨夜もまさにやつて来るかと思ふと、宇部の方へ外れてしまつた。敵もよく知つてゐるよ、宇部には重要工場がありますからな。それに較べると、どうも広島なんか兵隊がゐるだけで、工業的見地から云はすと殆ど問題ではないからね。きつと大丈夫ここは助かると僕はこの頃思ひだしたよ」と、大そう上機嫌で弁じるのであつた。(この大谷は八月六日の朝、出勤の途上遂に行衛不明になったのである)。
 ……だが、広島が助かるかもしれないと思ひだした人間は、この大谷ひとりではなかつた。一時はあれほど殷賑をきはめた夜の逃亡も、次第に人足が減じて来たのである。そこへもつて来て、小型機の来襲が数回あつたが、白昼、広島上空をよこぎるその大群は、何らこの街に投弾することがなかつたばかりか、たまたま西練兵場の高射砲は中型一機を射落したのであつた。「広島は防げるでせうね」と電車のなかの一市民が将校に対つて話しかけると、将校は黙々と肯くのであつた。……「あ、面白かつた。あんな空中戦たら滅多に見られないのに」と康子は正三に云つた。正三は畳のない座敷で、ジイドの『一粒の麦もし死なずば』を読み耽けつてゐるのであつた。アフリカの灼熱のなかに展開される、青春と自我の、妖しげな図が、いつまでも彼の頭にこびりついてゐた。

 清二はこの街全体が助かるとも考へなかつたが、川端に臨んだ自分の家は焼けないで欲しいといつも祈つてゐた。三次町に疎開した二人の子供が無事でこの家に戻つて来て、みんなでまた河遊びができる日を夢みるのであつた。だが、さういふ日が何時やつてくるのか、つきつめて考へれば茫としてわからないのだつた。
「小さい子供だけでも、どこかへ疎開させたら……」と康子は夜毎の逃亡以来、頻りに気を揉むやうになつてゐた。「早く何とかして下さい」と妻の光子もその頃になると疎開を口にするのであつたが、「おまえ行つてきめて来い」と、清二は頗る不機嫌であつた。女房、子供を疎開させて、この自分は――順一のやうに何もかもうまく行くではなし――この家でどうして暮してゆけるのか、まるで見当がつかなかつた。何処か田舎へ家を借りて家財だけでも運んでおきたい、そんな相談なら前から妻としてゐた。だが、田舎の何処にそんな家がみつかるのか、清二にはまるであてがなかつた。この頃になると、清二は長兄の行動をかれこれ、あてこすらないかはりに、じつと怨めしげに、ひとり考へこむのであつた。
 順一もしかし清二の一家を見捨ててはおけなくなつた。結局、順一の肝煎で、田舎へ一軒、家を貸りることが出来た。が、荷を運ぶ馬車はすぐには傭へなかつた。田舎へ家が見つかつたとなると、清二は吻として、荷造に忙殺されてゐた。すると、三次の方の集団疎開地の先生から、父兄の面会日を通知して来た。三次の方へ訪ねて行くとなれば、冬物一切を持つて行つてやりたいし、疎開の荷造やら、学童へ持つて行つてやる品の準備で、家のうちはまたごつたかへした。それに清二は妙な癖があつて、学童へ持つて行つてやる品々には、きちんと毛筆で名前を記入しておいてやらぬと気が済まないのだつた。
 あれをかたづけたり、これをとりちらかしたりした揚句、夕方になると清二はふいと気をかへて、釣竿を持つて、すぐ前の川原に出た。この頃あまり釣れないのであるが、糸を垂れてゐると、一番気が落着くやうであつた。……ふと、トツトトツトといふ川のどよめきに清二はびつくりしたやうに眼をみひらいた。何か川をみつめながら、さきほどから夢をみてゐたやうな気持がする。それも昔読んだ旧約聖書の天変地異の光景をうつらうつらたどつてゐたやうである。すると、崖の上の家の方から、「お父さん、お父さん」と大声で光子の呼ぶ姿が見えた。清二が釣竿をかかへて石段を昇つて行くと、妻はだしぬけに、
「疎開よ」と云つた。
「それがどうした」と清二は何のことかわからないので問ひかへした。
「さつき大川がやつて来て、そう云つたのですよ、三日以内に立退かねばすぐにこの家とり壊されてしまひます」
「ふーん」と清二は呻いたが、「それで、おまえは承諾したのか」
「だからさう云っているのぢやありませんか。何とかしなきや大変ですよ。この前、大川に逢つた時には、お宅はこの計画の区域に這入りませんと、ちやんと図面みせながら説明してくれた癖に、こんどは藪から棒に、二〇メートルごとの規定ですと来るのです」
「満洲ゴロに一杯喰はされたか」
「口惜しいではありませんか。何とかしなきや大変ですよ」と、光子は苛々[#「苛々」は底本では「荷々」と誤植]しだす。
「おまえ行つてきめてこい」そう清二は嘯いたが、ぐづぐづしてゐる場合でもなかつた。「本家へ行かう」と、二人はそれから間もなく順一の家を訪れた。しかし、順一はその晩も既に五日市町の方へ出かけたあとであつた。市外電話で順一を呼出さうとすると、どうしたものか、その夜は一向、電話が通じない。光子は康子をとらへて、また大川のやり口をだらだらと罵りだす。それをきいてゐると、清二は三日後にとり壊される家の姿が胸につまり、今はもう絶体絶命の気持だつた。
「どうか神様三日以内にこの広島が大空襲をうけますやうに」
 若い頃クリスチヤンであつた清二は、ふと口をひらくとこんな祈をささげたのであつた。

 その翌朝、清二の妻は事務室に順一を訪れて、疎開のことをだらだらと訴へ、建物疎開のことは市会議員の田崎が本家本元らしいのだから、田崎の方へ何とか頼んでもらひたいといふのであつた。
 フン、フンと順一は聴いてゐたが、やがて、五日市へ電話をかけると、高子にすぐ帰つてこいと命じた。それから、清二を顧みて、「何て有様だ。お宅は建物疎開ですといはれて、ハイさうですか、と、なすがままにされてゐるのか。空襲で焼かれた分なら、保険がもらへるが、疎開でとりはらはれた家は、保険金だつてつかないぢやないか」と、苦情云ふのであつた。
 そのうち暫くすると、高子がやつて来た。高子はことのなりゆきを一とほり聴いてから、「じやあ、ちよつと田崎さんのところへ行つて来ませう」と、気軽に出かけて行つた。一時間もたたぬうちに、高子は晴れ晴れした顔で戻つて来た。
「あの辺の建物疎開はあれで打切ることにさせると、田崎さんは約束してくれました」
 かうして、清二の家の難題もすらすら解決した。と、その時、恰度、警戒警報が解除になつた。
「さあ、また警報が出るとうるさいから今のうちに帰りませう」と高子は急いで外に出て行くのであつた。
 暫くすると、土蔵脇の鶏小屋で、二羽の雛がてんでに時を告げだした。その調子はまだ整つてゐないので、時に順一たちを興がらせるのであつたが、今は誰も鶏の啼声に耳を傾けてゐるものもなかつた。暑い陽光《ひざし》が、百日紅の上の、静かな空に漲つてゐた。……原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあつた。



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第1刷発行
初出:「三田文学」
   1949年(昭和24)1月号
※連作「夏の花」の3作目
※「嵐に揉みくちやにされて」を、「嵐が」としている異本がある。
入力:ジェラスガイ
校正:皆森もなみ
2002年8月2日作成
2002年10月10日修正
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