落着くやうであつた。……ふと、トツトトツトといふ川のどよめきに清二はびつくりしたやうに眼をみひらいた。何か川をみつめながら、さきほどから夢をみてゐたやうな気持がする。それも昔読んだ旧約聖書の天変地異の光景をうつらうつらたどつてゐたやうである。すると、崖の上の家の方から、「お父さん、お父さん」と大声で光子の呼ぶ姿が見えた。清二が釣竿をかかへて石段を昇つて行くと、妻はだしぬけに、
「疎開よ」と云つた。
「それがどうした」と清二は何のことかわからないので問ひかへした。
「さつき大川がやつて来て、そう云つたのですよ、三日以内に立退かねばすぐにこの家とり壊されてしまひます」
「ふーん」と清二は呻いたが、「それで、おまえは承諾したのか」
「だからさう云っているのぢやありませんか。何とかしなきや大変ですよ。この前、大川に逢つた時には、お宅はこの計画の区域に這入りませんと、ちやんと図面みせながら説明してくれた癖に、こんどは藪から棒に、二〇メートルごとの規定ですと来るのです」
「満洲ゴロに一杯喰はされたか」
「口惜しいではありませんか。何とかしなきや大変ですよ」と、光子は苛々[#「苛々」は底本では「荷々
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