が将校に対つて話しかけると、将校は黙々と肯くのであつた。……「あ、面白かつた。あんな空中戦たら滅多に見られないのに」と康子は正三に云つた。正三は畳のない座敷で、ジイドの『一粒の麦もし死なずば』を読み耽けつてゐるのであつた。アフリカの灼熱のなかに展開される、青春と自我の、妖しげな図が、いつまでも彼の頭にこびりついてゐた。

 清二はこの街全体が助かるとも考へなかつたが、川端に臨んだ自分の家は焼けないで欲しいといつも祈つてゐた。三次町に疎開した二人の子供が無事でこの家に戻つて来て、みんなでまた河遊びができる日を夢みるのであつた。だが、さういふ日が何時やつてくるのか、つきつめて考へれば茫としてわからないのだつた。
「小さい子供だけでも、どこかへ疎開させたら……」と康子は夜毎の逃亡以来、頻りに気を揉むやうになつてゐた。「早く何とかして下さい」と妻の光子もその頃になると疎開を口にするのであつたが、「おまえ行つてきめて来い」と、清二は頗る不機嫌であつた。女房、子供を疎開させて、この自分は――順一のやうに何もかもうまく行くではなし――この家でどうして暮してゆけるのか、まるで見当がつかなかつた。何処か
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