あらうか。賭にも等しい運命であつた。どうかすると、その街が何ごともなく無疵のまま残されること、――そんな虫のいい、愚かしいことも、やはり考へ浮かぶのではあつた。

 黒羅紗の立派なジヤンパーを腰のところで締め、綺麗に剃刀のあたつた頤を光らせながら、清二は忙しげに正三の部屋の入口に立ちはだかつた。
「おい、何とかせよ」
 さういふ語気にくらべて、清二の眼の色は弱かつた。彼は正三が手紙を書きかけてゐる机の傍に坐り込むと、側にあつた※[#濁点付き片仮名「ヰ」、1−7−83]ンゲルマンの『希臘芸術模倣論』の挿絵をパラパラとめくつた。正三はペンを擱くと、黙つて兄の仕草を眺めてゐた。若いとき一時、美術史に熱中したことのあるこの兄は、今でもさういふものには惹きつけられるのであらうか……。だが、清二はすぐにパタンとその本を閉ぢてしまつた。
 それはさきほどの「何とかせよ」といふ語気のつづきのやうにも正三にはおもへた。長兄のところへ舞戻つて来てからもう一ヶ月以上になるのに、彼は何の職に就くでもなし、ただ朝寝と夜更かしをつづけてゐた。
 彼にくらべると、この次兄は毎日を規律と緊張のうちに送つてゐるのであつ
前へ 次へ
全60ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング