遠方へ旅立つた。
……その手紙を受取つた男は、二階でぼんやり窓の外を眺めてゐた。すぐ眼の前に隣家の小さな土蔵が見え、屋根近くその白壁の一ところが剥脱してゐて粗い赭土を露出させた寂しい眺めが、――さういふ些細な部分だけが、昔ながらの面影を湛へてゐるやうであつた。……彼も近頃この街へ棲むやうになつたのだが、久しいあひだ郷里を離れてゐた男には、すべてが今は縁なき衆生のやうであつた。少年の日の彼の夢想を育んだ山や河はどうなつたのだらうか、――彼は足の赴くままに郷里の景色を見て歩いた。残雪をいただいた中国山脈や、その下を流れる川は、ぎごちなく武装した、ざわつく街のために稀薄な印象をとどめてゐた。巷では、行逢ふ人から、木で鼻を括るやうな扱ひを受けた。殺気立つた中に、何ともいへぬ間の抜けたものも感じられる、奇怪な世界であつた。
……いつのまにか彼は友人の手紙にある戦慄について考へめぐらしてゐた。想像を絶した地獄変、しかも、それは一瞬にして捲き起るやうにおもへた。さうすると、彼はやがてこの街とともに滅び失せてしまふのだらうか、それとも、この生れ故郷の末期の姿を見とどけるために彼は立戻つて来たので
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