アが一脚ぽつんと置かれてゐた。かうなると、いよいよこの家も最後が近いやうな気がしたが、正三は縁側に佇んで、よく庭の隅の白い花を眺めた。それは梅雨頃から咲きはじめて、一つが朽ちかかる頃には一つが咲き、今も六瓣の、ひつそりとした姿を湛へてゐるのだつた。次兄にその名称を訊くと、梔子《くちなし》だといつた。さういへば子供の頃から見なれた花だが、ひつそりとした姿が今はたまらなく懐しかつた。……
「コレマデナンド クウシウケイホウニアツタカシレナイ イマモ カイガンノホウガ アカアカトモエテヰル ケイホウガデルタビニ オレハゲンコウヲカカヘテ ゴウニモグリコムコノゴロ オレハ コウトウスウガクノケンキユウヲシテヰルノダ スウガクハウツクシイ ニホンノゲイジユツカハ コレガワカラヌカラダメサ」こんな風な手紙が東京の友人から久振りに正三の手許に届いた。岩手県の方にゐる友からはこの頃、便りがなかつた。釜石が艦砲射撃に遇ひ、あの辺ももう安全ではなささうであつた。
 ある朝、正三が事務室にゐると、近所の会社に勤めてゐる大谷がやつて来た。彼は高子の身内の一人で、順一たちの紛争《ごたごた》の頃から、よくここへ立寄るので、正三にももう珍しい顔ではなかつた。細い脛に黒いゲートルを捲き、ひよろひよろの胴と細長い面は、何か危なかしい印象をあたへるのだが、それを支へようとする気魄も備はつてゐた。その大谷は順一のテーブルの前につかつかと近よると、
「どうです、広島は。昨夜もまさにやつて来るかと思ふと、宇部の方へ外れてしまつた。敵もよく知つてゐるよ、宇部には重要工場がありますからな。それに較べると、どうも広島なんか兵隊がゐるだけで、工業的見地から云はすと殆ど問題ではないからね。きつと大丈夫ここは助かると僕はこの頃思ひだしたよ」と、大そう上機嫌で弁じるのであつた。(この大谷は八月六日の朝、出勤の途上遂に行衛不明になったのである)。
 ……だが、広島が助かるかもしれないと思ひだした人間は、この大谷ひとりではなかつた。一時はあれほど殷賑をきはめた夜の逃亡も、次第に人足が減じて来たのである。そこへもつて来て、小型機の来襲が数回あつたが、白昼、広島上空をよこぎるその大群は、何らこの街に投弾することがなかつたばかりか、たまたま西練兵場の高射砲は中型一機を射落したのであつた。「広島は防げるでせうね」と電車のなかの一市民が将校に対つて話しかけると、将校は黙々と肯くのであつた。……「あ、面白かつた。あんな空中戦たら滅多に見られないのに」と康子は正三に云つた。正三は畳のない座敷で、ジイドの『一粒の麦もし死なずば』を読み耽けつてゐるのであつた。アフリカの灼熱のなかに展開される、青春と自我の、妖しげな図が、いつまでも彼の頭にこびりついてゐた。

 清二はこの街全体が助かるとも考へなかつたが、川端に臨んだ自分の家は焼けないで欲しいといつも祈つてゐた。三次町に疎開した二人の子供が無事でこの家に戻つて来て、みんなでまた河遊びができる日を夢みるのであつた。だが、さういふ日が何時やつてくるのか、つきつめて考へれば茫としてわからないのだつた。
「小さい子供だけでも、どこかへ疎開させたら……」と康子は夜毎の逃亡以来、頻りに気を揉むやうになつてゐた。「早く何とかして下さい」と妻の光子もその頃になると疎開を口にするのであつたが、「おまえ行つてきめて来い」と、清二は頗る不機嫌であつた。女房、子供を疎開させて、この自分は――順一のやうに何もかもうまく行くではなし――この家でどうして暮してゆけるのか、まるで見当がつかなかつた。何処か田舎へ家を借りて家財だけでも運んでおきたい、そんな相談なら前から妻としてゐた。だが、田舎の何処にそんな家がみつかるのか、清二にはまるであてがなかつた。この頃になると、清二は長兄の行動をかれこれ、あてこすらないかはりに、じつと怨めしげに、ひとり考へこむのであつた。
 順一もしかし清二の一家を見捨ててはおけなくなつた。結局、順一の肝煎で、田舎へ一軒、家を貸りることが出来た。が、荷を運ぶ馬車はすぐには傭へなかつた。田舎へ家が見つかつたとなると、清二は吻として、荷造に忙殺されてゐた。すると、三次の方の集団疎開地の先生から、父兄の面会日を通知して来た。三次の方へ訪ねて行くとなれば、冬物一切を持つて行つてやりたいし、疎開の荷造やら、学童へ持つて行つてやる品の準備で、家のうちはまたごつたかへした。それに清二は妙な癖があつて、学童へ持つて行つてやる品々には、きちんと毛筆で名前を記入しておいてやらぬと気が済まないのだつた。
 あれをかたづけたり、これをとりちらかしたりした揚句、夕方になると清二はふいと気をかへて、釣竿を持つて、すぐ前の川原に出た。この頃あまり釣れないのであるが、糸を垂れてゐると、一番気が
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