、ふと、汗まみれの正三の頭には浮ぶのであつた。……暫くすると、清二の一家がやつて来る。嫂は赤ん坊を背負ひ、女中は何か荷を抱へてゐる。康子は小さな甥の手をひいて、とつとと先頭にゐる。(彼女はひとりで逃げてゐると、警防団につかまりひどく叱られたことがあるので、それ以来この甥を貸りるやうになつた。)清二と中学生の甥は並んで後からやつて来る。それから、その辺の人家のラジオに耳を傾けながら、情勢次第によつては更に川上に溯つてゆくのだ。長い堤をづんづん行くと、人家も疏らになり、田の面や山麓が朧に見えて来る。すると、蛙の啼声が今あたり一めんにきこえて来る。ひつそりとした夜陰のなかを逃げのびてゆく人影はやはり絶えない。いつのまにか夜が明けて、おびただしいガスが帰路一めんに立罩めてゐることもあつた。
 時には正三は単独で逃亡することもあつた。彼は一ヶ月前から在郷軍人の訓練に時折、引ぱり出されてゐたが、はじめ頃廿人あまり集合してゐた同類も、次第に数を減じ、今では四五名にすぎなかつた。「いづれ八月には大召集がかかる」と分会長はいつた。はるか宇品の方の空では探照燈が揺れ動いてゐる夕闇の校庭に立たされて、予備少尉の話をきかされてゐる時、正三は気もそぞろであつた。訓練が了へて、家へ戻つたかとおもふと、サイレンが鳴りだすのだつた。だが、つづいて空襲警報が鳴りだす頃には、正三はぴちんと身支度を了へてゐる。あわただしい訓練のつづきのやうに、彼は闇の往来へ飛出すのだ。それから、かつかと鳴る靴音をききながら、彼は帰宅を急いでゐる者のやうな風を粧ふ。橋の関所を無事に通越すと、やがて饒津裏の堤へ来る。……ここではじめて、正三は立留まり、叢に腰を下ろすのであつた。すぐ川下の方には鉄橋があり、水の退いた川には白い砂洲が朧に浮上つてゐる。それは少年の頃からよく散歩して見憶えてゐる景色だが、正三には、頭上にかぶさる星空が、ふと野戦のありさまを想像さすのだつた。『戦争と平和』に出て来る、ある人物の眼に映じる美しい大自然のながめ、静まりかへつた心境、――さういつたものが、この己の死際にも、はたして訪れて来るだらうか。すると、ふと正三の蹲つてゐる叢のすぐ上の杉の梢の方で、何か微妙な啼声がした。おや、ほととぎすだな、さうおもひながら正三は何となく不思議な気持がした。この戦争が本土決戦に移り、もしも広島が最後の牙城となるとしたら、その時、己は決然と命を捨てて戦ふことができるであらうか。……だが、この街が最後の楯になるなぞ、なんといふ狂気以上の妄想だらう。仮りにこれを叙事詩にするとしたら、最も矮小で陰惨かぎりないものになるに相違ない。……だが、正三はやはり頭上に被さる見えないものの羽撃《はばたき》を、すぐ身近かにきくやうなおもひがするのであつた。

 警報が解除になり、清二の家までみんな引返しても、正三はそこの玄関で暫くラジオをきいてゐることがあつた。どうかすると、また逃げださなければならぬので、甥も姪もまだ靴のままでゐる。だが、大人達がラジオに気をとられてゐるうち、さきほどまで声のしてゐた甥が、いつのまにか玄関の石の上に手足を投出し、大鼾で睡つてゐることがあつた。この起伏常なき生活に馴れてしまつたらしい子供は、まるで兵士のやうな鼾をかいてゐる。(この姿を正三は何気なく眺めたのであつたが、それがやがて、兵士のやうな死に方をするとはおもへなかつた。まだ一年生の甥は集団疎開へも参加出来ず、時たま国民学校へ通つてゐた。八月六日も恰度、学校へ行く日で、その朝、西練兵場の近くで、この子供はあへなき最後を遂げたのだつた。)
 ……暫く待つてゐても別状ないことがわかると、康子がさきに帰つて行き、つづいて正三も清二の門口を出て行く。だが、本家に戻つて来ると、二枚重ねて着てゐる服は汗でビツシヨリしてゐるし、シヤツも靴下も一刻も早く脱捨ててしまひたい。風呂場で水を浴び、台所の椅子に腰を下ろすと、はじめて正三は人心地にかへるやうであつた。――今夜の巻も終つた。だが、明晩《あす》は――。その明晩も、かならず土佐沖海面から始まる。すると、ゲートルだ、雑嚢だ、靴だ、すべての用意が闇のなかから飛ついて来るし、逃亡の路は正確に横はつてゐた。……(このことを後になつて回想すると、正三はその頃比較的健康でもあつたが、よくもあんなに敏捷に振舞へたものだと思へるのであつた。人は生涯に於いてかならず意外な時期を持つものであらうか)。

 森製作所の工場疎開はのろのろと行はれてゐた。ミシンの取はづしは出来てゐても、馬車の割当が廻つて来るのが容易でなかつた。馬車がやつて来た朝は、みんな運搬に急がしく、順一はとくに活気づいた。ある時、座敷に敷かれてゐた畳がそつくり、この馬車で運ばれて行つた。畳の剥がれた座敷は、坐板だけで広々とし、ソフ
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