落着くやうであつた。……ふと、トツトトツトといふ川のどよめきに清二はびつくりしたやうに眼をみひらいた。何か川をみつめながら、さきほどから夢をみてゐたやうな気持がする。それも昔読んだ旧約聖書の天変地異の光景をうつらうつらたどつてゐたやうである。すると、崖の上の家の方から、「お父さん、お父さん」と大声で光子の呼ぶ姿が見えた。清二が釣竿をかかへて石段を昇つて行くと、妻はだしぬけに、
「疎開よ」と云つた。
「それがどうした」と清二は何のことかわからないので問ひかへした。
「さつき大川がやつて来て、そう云つたのですよ、三日以内に立退かねばすぐにこの家とり壊されてしまひます」
「ふーん」と清二は呻いたが、「それで、おまえは承諾したのか」
「だからさう云っているのぢやありませんか。何とかしなきや大変ですよ。この前、大川に逢つた時には、お宅はこの計画の区域に這入りませんと、ちやんと図面みせながら説明してくれた癖に、こんどは藪から棒に、二〇メートルごとの規定ですと来るのです」
「満洲ゴロに一杯喰はされたか」
「口惜しいではありませんか。何とかしなきや大変ですよ」と、光子は苛々[#「苛々」は底本では「荷々」と誤植]しだす。
「おまえ行つてきめてこい」そう清二は嘯いたが、ぐづぐづしてゐる場合でもなかつた。「本家へ行かう」と、二人はそれから間もなく順一の家を訪れた。しかし、順一はその晩も既に五日市町の方へ出かけたあとであつた。市外電話で順一を呼出さうとすると、どうしたものか、その夜は一向、電話が通じない。光子は康子をとらへて、また大川のやり口をだらだらと罵りだす。それをきいてゐると、清二は三日後にとり壊される家の姿が胸につまり、今はもう絶体絶命の気持だつた。
「どうか神様三日以内にこの広島が大空襲をうけますやうに」
若い頃クリスチヤンであつた清二は、ふと口をひらくとこんな祈をささげたのであつた。
その翌朝、清二の妻は事務室に順一を訪れて、疎開のことをだらだらと訴へ、建物疎開のことは市会議員の田崎が本家本元らしいのだから、田崎の方へ何とか頼んでもらひたいといふのであつた。
フン、フンと順一は聴いてゐたが、やがて、五日市へ電話をかけると、高子にすぐ帰つてこいと命じた。それから、清二を顧みて、「何て有様だ。お宅は建物疎開ですといはれて、ハイさうですか、と、なすがままにされてゐるのか。空襲
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