眼の前に一枚の紙片を差出した。点呼令状であった。正三はじっとその紙に眼をおとし、印刷の隅々《すみずみ》まで読みかえした。
「五月か」と彼はそう呟《つぶや》いた。正三は昨年、国民兵の教育召集を受けた時ほどにはもう驚かなかった。がしかし清二は彼の顔に漾う苦悶《くもん》の表情をみてとって、「なあに、どっちみち、今となっては、内地勤務だ、大したことないさ」と軽くうそぶいた。……五月といえば、二カ月さきのことであったが、それまでこの戦争が続くだろうか、と正三は窃《ひそ》かに考え耽《ふけ》った。
何ということなしに正三は、ぶらぶらと街をよく散歩した。妹の息子《むすこ》の乾一を連れて、久し振りに泉邸へも行ってみた。昔、彼が幼かったとき彼もよく誰かに連れられて訪れたことのある庭園だが、今も淡い早春の陽《ひ》ざしのなかに樹木や水はひっそりとしていた。絶好の避難場所、そういう想念がすぐ閃《ひら》めくのであった。……映画館は昼間から満員だったし、盛場の食堂はいつも賑《にぎ》わっていた。正三は見覚えのある小路を選んでは歩いてみたが、どこにももう子供心に印されていた懐《なつか》しいものは見出《みいだ》せなかっ
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