今も窓から吹込む風がふとなつかしい記憶のにおいを齎《もた》らしたりした。が、さきほどから正三をおどろかしている中国山脈の表情はなおも衰えなかった。暮れかかった空に山々はいよいよあざやかな緑を投出し、瀬戸内海の島影もくっきりと浮上った。波が、青い穏かな波が、無限の嵐《あらし》にあおられて、今にも狂いまわりそうに想えた。
正三の眼には、いつも見馴《みな》れている日本地図が浮んだ。広袤《こうほう》はてしない太平洋のはてに、はじめ日本列島は小さな点々として映る。マリアナ基地を飛立ったB29の編隊が、雲の裏を縫って星のように流れてゆく。日本列島がぐんとこちらに引寄せられる。八丈島の上で二つに岐《わか》れた編隊の一つは、まっすぐ富士山の方に向い、他は、熊野灘《くまのなだ》に添って紀伊水道の方へ進む。が、その編隊から、いま一機がふわりと離れると、室戸岬《むろとみさき》を越えて、ぐんぐん土佐湾に向ってゆく。……青い平原の上に泡《あわ》立ち群がる山脈が見えてくるが、その峰を飛越えると、鏡のように静まった瀬戸内海だ。一機はその鏡面に散布する島々を点検しながら、悠然《ゆうぜん》と広島湾上を舞っている。強
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