も参加出来ず、時たま国民学校へ通っていた。八月六日も恰度《ちょうど》、学校へ行く日で、その朝、西練兵場の近くで、この子供はあえなき最後を遂《と》げたのだった)
 ……暫く待っていても別状ないことがわかると、康子がさきに帰って行き、つづいて正三も清二の門口を出て行く。だが、本家に戻って来ると、二枚重ねて着ている服は汗でビッショリしているし、シャツも靴下も一刻も早く脱捨ててしまいたい。風呂場で水を浴び、台所の椅子に腰を下ろすと、はじめて正三は人心地《ひとごこち》にかえるようであった。――今夜の巻も終った。だが、明晩《あす》は。――その明晩も、かならず土佐沖海面から始る。すると、ゲートルだ、雑嚢だ、靴だ、すべての用意が闇のなかから飛びついて来るし、逃亡の路は正確に横わっていた。……(このことを後になって回想すると、正三はその頃比較的健康でもあったが、よくもあんなに敏捷《びんしょう》に振舞えたものだと思えるのであった。人は生涯に於《お》いてかならず意外な時期を持つものであろうか)

 森製作所の工場疎開はのろのろと行われていた。ミシンの取はずしは出来ていても、馬車の割当が廻って来るのが容易でなかった。馬車がやって来た朝は、みんな運搬に急がしく、順一はとくに活気づいた。ある時、座敷に敷かれていた畳がそっくり、この馬車で運ばれて行った。畳の剥《は》がれた座敷は、坐板だけで広々とし、ソファが一脚ぽつんと置かれていた。こうなると、いよいよこの家も最後が近いような気がしたが、正三は縁側に佇《たたず》んで、よく庭の隅《すみ》の白い花を眺めた。それは梅雨頃から咲きはじめて、一つが朽ちかかる頃には一つが咲き、今も六|瓣《べん》の、ひっそりした姿を湛《たた》えているのだった。次兄にその名称を訊《き》くと、梔子《くちなし》だといった。そういえば子供の頃から見なれた花だが、ひっそりとした姿が今はたまらなく懐《なつか》しかった。……
「コレマデナンド クウシュウケイホウニアッタカシレナイ イマモ カイガンノホウガ アカアカトモエテイル ケイホウガデルタビニ オレハゲンコウヲカカエテ ゴウニモグリコムコノゴロ オレハ コウトウスウガクノケンキュウヲシテイルノダ スウガクハウツクシイ ニホンノゲイジュツカハ コレガワカラヌカラダメサ」こんな風な手紙が東京の友人から久し振りに正三の手許《てもと》に届いた。岩手県の方にいる友からはこの頃、便《たよ》りがなかった。釜石《かまいし》が艦砲射撃に遇《あ》い、あの辺ももう安全ではなさそうであった。
 ある朝、正三が事務室にいると、近所の会社に勤めている大谷がやって来た。彼は高子の身内の一人で、順一たちの紛争《ごたごた》の頃から、よくここへ立寄るので、正三にももう珍しい顔ではなかった。細い脛《すね》に黒いゲートルを捲《ま》き、ひょろひょろの胴と細長い面は、何か危かしい印象をあたえるのだが、それを支《ささ》えようとする気魄《きはく》も備わっていた。その大谷は順一のテーブルの前につかつかと近よると、
「どうです、広島は。昨夜もまさにやって来るかと思うと、宇部の方へ外《そ》れてしまった。敵もよく知っているよ、宇部には重要工場がありますからな。それに較《くら》べると、どうも広島なんか兵隊がいるだけで、工業的見地から云わすと殆《ほとん》ど問題ではないからね。きっと大丈夫ここは助かると僕はこの頃思いだしたよ」と、大そう上機嫌《じょうきげん》で弁じるのであった。(この大谷は八月六日の朝、出勤の途上|遂《つい》に行方《ゆくえ》不明になったのである)
 ……だが、広島が助かるかもしれないと思いだした人間は、この大谷ひとりではなかった。一時はあれほど殷賑《いんしん》をきわめた夜の逃亡も、次第に人足が減じて来たのである。そこへもって来て、小型機の来襲が数回あったが、白昼、広島上空をよこぎるその大群は、何らこの街に投弾することがなかったばかりか、たまたま西練兵場の高射砲は中型一機を射落したのであった。「広島は防げるでしょうね」と電車のなかの一市民が将校に対《むか》って話しかけると、将校は黙々と肯《うなず》くのであった。……「あ、面白かった。あんな空中戦たら滅多に見られないのに」と康子は正三に云った。正三は畳のない座敷で、ジイドの『一粒の麦もし死なずば』を読み耽《ふ》けっているのであった。アフリカの灼熱《しゃくねつ》のなかに展開される、青春と自我の、妖《あや》しげな図が、いつまでも彼の頭にこびりついていた。

 清二はこの街全体が助かるとも考えなかったが、川端に臨んだ自分の家は焼けないで欲しいといつも祈っていた。三次《みよし》町に疎開した二人の子供が無事でこの家に戻って来て、みんなでまた河遊びができる日を夢みるのであった。だが、そういう日が何時《いつ》
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