り、つづいてそれは空襲警報に移っていた。正三は蚊帳《かや》の外に匐《は》い出すと、ゲートルを捲《ま》いた。それから雑嚢《ざつのう》と水筒を肩に交錯させると、その上をバンドで締めた。玄関で靴を探《さが》し、最後に手袋を嵌《は》めた時、サイレンが警戒警報を放った。彼はとっとと表へ飛び出すと、清二の家の方へ急いだ。暗闇《くらやみ》のなかを固い靴底に抵抗するアスファルトがあった。正三はぴんと立ってうまく歩いている己の脚を意識した。清二の家の門は開け放たれていた。玄関の戸をいくら叩《たた》いても何の手ごたえもない。既に逃げ去った後らしかった。正三はあたふたと堤の路《みち》を突きって栄橋の方へ進んだ。橋の近くまで来た時、サイレンは空襲を唸《うな》りだすのであった。
 夢中で橋を渡ると、饒津《にぎつ》公園裏の土手を廻り、いつの間にか彼は牛田《うした》方面へ向う堤まで来ていた。この頃、漸く正三は彼のすぐ周囲をぞろぞろと犇《ひしめ》いている人の群に気づいていた。それは老若男女、あらゆる市民の必死のいでたちであった。鍋釜《なべかま》を満載したリヤカーや、老母を載せた乳母車《うばぐるま》が、雑沓《ざっとう》のなかを掻《か》きわけて行く。軍用犬に自転車を牽《ひ》かせながら、颯爽《さっそう》と鉄兜《てつかぶと》を被《かぶ》っている男、杖《つえ》にとり縋《すが》り跛《びっこ》をひいている老人。……トラックが来た。馬が通る。薄闇の狭い路上がいま祭日のように賑わっているのだった。……正三は樹蔭《こかげ》の水槽《すいそう》の傍にある材木の上に腰を下ろした。
「この辺なら大丈夫でしょうか」と通りがかりの老婆が訊《たず》ねた。
「大丈夫でしょう、川もすぐ前だし、近くに家もないし」そういって彼は水筒の栓《せん》を捻《ひね》った。いま広島の街の空は茫と白んで、それはもういつ火の手があがるかもしれないようにおもえた。街が全焼してしまったら、明日から己《おれ》はどうなるのだろう、そう思いながらも、正三は目の前の避難民の行方《ゆくえ》に興味を感じるのであった。
『ヘルマンとドロテア』のはじめに出て来る避難民の光景が浮んだ。だが、それに較《くら》べると何とこれは怕《おそろ》しく空白な情景なのだろう。……暫くすると、空襲警報が解除になり、つづいて警戒警報も解かれた。人々はぞろぞろと堤の路を引上げて行く。正三もその路をひとりひきかえして行った。路は来た折よりも更に雑沓していた。何か喚《わめ》きながら、担架が相次いでやって来る。病人を運ぶ看護人たちであった。
 空から撒布《さんぷ》されたビラは空襲の切迫を警告していたし、脅えた市民は、その頃、日没と同時にぞろぞろと避難行動を開始した。まだ何の警報もないのに、川の上流や、郊外の広場や、山の麓《ふもと》は、そうした人々で一杯になり、叢《くさむら》では、蚊帳や、夜具や、炊事道具さえ持出された。朝昼なしに混雑する宮島線の電車は、夕刻になると更に殺気立つ。だが、こうした自然の本能をも、すぐにその筋はきびしく取締りだした。ここでは防空要員の疎開を認めないことは、既に前から規定されていたが、今度は防空要員の不在をも監視しようとし、各戸に姓名年齢を記載させた紙を貼《は》り出させた。夜は、橋の袂《たもと》や辻々《つじつじ》に銃剣つきの兵隊や警官が頑張《がんば》った。彼等は弱い市民を脅迫して、あくまでこの街を死守させようとするのであったが、窮鼠《きゅうそ》の如く追いつめられた人々は、巧みにまたその裏をくぐった。夜間、正三が逃げて行く途上あたりを注意してみると、どうも不在らしい家の方が多いのであった。
 正三もまたあの七月三日の晩から八月五日の晩――それが最終の逃亡だった――まで、夜間形勢が怪しげになると忽《たちま》ち逃げ出すのであった。……土佐沖海面警戒警報が出るともう身支度《みじたく》に取掛る。高知県、愛媛県に空襲警報が発せられて、広島県、山口県が警戒警報になるのは十分とかからない。ゲートルは暗闇のなかでもすぐ捲けるが、手拭《てぬぐい》とか靴箆《くつべら》とかいう細かなもので正三は鳥渡《ちょっと》手間どることがある。が、警戒警報のサイレン迄にはきっと玄関さきで靴をはいている。康子は康子で身支度をととのえ、やはりその頃、玄関さきに来ている。二人はあとさきになり、門口を出てゆくのであった。……ある町角を曲り、十歩ばかり行くと正三はもう鳴りだすぞとおもう。はたして、空襲警報のものものしいサイレンが八方の闇から喚きあう。おお、何という、高低さまざまの、いやな唸り声だ。これは傷いた獣の慟哭《どうこく》とでもいうのであろうか。後の歴史家はこれを何と形容するだろうか。――そんな感想や、それから、……それにしても昔、この自分は街にやって来る獅子《しし》の笛を遠方から
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