を食べてんだそうな」……夕刻、事務室のラジオは京浜地区にB29五百機来襲を報じていた。顰面《しかめつら》して聴《き》いていた三津井老人は、
「へーえ、五百機!……」
と思わず驚嘆の声をあげた。すると、皆はくすくす笑い出すのであった。
……ある日、東警察署の二階では、市内の工場主を集めて何か訓示が行われていた。代理で出掛けて来た正三は、こういう席にははじめてであったが、興もなさげにひとり勝手なことを考えていた。が、そのうちにふと気がつくと、弁士が入替って、いま体躯《たいく》堂々たる巡査が喋りだそうとするところであった。正三はその風采《ふうさい》にちょっと興味を感じはじめた。体格といい、顔つきといい、いかにも典型的な警察官というところがあった。「ええ、これから防空演習の件について、いささか申上げます」と、その声はまた明朗|闊達《かったつ》であった。……おやおや、全国の都市がいま弾雨の下に晒《さら》されている時、ここでは演習をやるというのかしら、と正三は怪しみながら耳を傾けた。
「ええ、御承知の通り現在、我が広島市へは東京をはじめ、名古屋、或《あるい》は大阪、神戸方面から、つまり各方面の罹災者《りさいしゃ》が続々と相次いで流込んでおります。それらの罹災者が我が市民諸君に語るところは何であるかと申しますと、『いやはや、空襲は怕《こわ》かった怕かった。何んでもかんでも速く逃げ出すに限る』と、ほざくのであります。しかし、畢竟《ひっきょう》するに彼等は防空上の惨敗者であり、憐《あわれ》むべき愚民であります。自ら恃《たの》むところ厚き我々は決して彼等の言に耳を傾けてはならないのであります。なるほど戦局は苛烈《かれつ》であり、空襲は激化の一路にあります。だが、いかなる危険といえども、それに対する確乎《かっこ》たる防備さえあれば、いささかも怖《おそ》るには足りないのであります」
そう云いながら、彼はくるりと黒板の方へ対《む》いて、今度は図示に依《よ》って、実際的の説明に入った。……その聊《いささ》かも不安もなさげな、彼の話をきいていると、実際、空襲は簡単|明瞭《めいりょう》な事柄であり、同時に人の命もまた単純明確な物理的作用の下にあるだけのことのようにおもえた。珍しい男だな、と正三は考えた。だが、このような好漢ロボットなら、いま日本にはいくらでもいるにちがいない。
順一は手ぶらで五日市町の方へ出向くことはなく、いつもリュックサックにこまごました疎開の品を詰込み、夕食後ひとりいそいそと出掛けて行くのであったが、ある時、正三に「万一の場合知っていてくれぬと困るから、これから一緒に行こう」と誘った。小さな荷物持たされて、正三は順一と一緒に電車の停車場へ赴《おもむ》いた。己斐《こい》行はなかなかやって来ず、正三は広々とした道路のはてに目をやっていた。が、そのうちに、建物の向うにはっきりと呉娑娑宇《ごさそう》山がうずくまっている姿がうつった。
それは今、夏の夕暮の水蒸気を含んで鮮《あざや》かに生動していた。その山に連なるほかの山々もいつもは仮睡の淡い姿しか示さないのに、今日はおそろしく精気に満ちていた。底知れない姿の中を雲がゆるゆると流れた。すると、今にも山々は揺れ動き、叫びあおうとするようであった。ふしぎな光景であった。ふと、この街をめぐる、或る大きなものの構図が、このとき正三の眼に描かれて来だした。……清冽《せいれつ》な河川をいくつか乗越え、電車が市外に出てからも、正三の眼は窓の外の風景に喰入《くいい》っていた。その沿線はむかし海水浴客で賑《にぎ》わったので、今も窓から吹込む風がふとなつかしい記憶のにおいを齎《もた》らしたりした。が、さきほどから正三をおどろかしている中国山脈の表情はなおも衰えなかった。暮れかかった空に山々はいよいよあざやかな緑を投出し、瀬戸内海の島影もくっきりと浮上った。波が、青い穏かな波が、無限の嵐《あらし》にあおられて、今にも狂いまわりそうに想えた。
正三の眼には、いつも見馴《みな》れている日本地図が浮んだ。広袤《こうほう》はてしない太平洋のはてに、はじめ日本列島は小さな点々として映る。マリアナ基地を飛立ったB29の編隊が、雲の裏を縫って星のように流れてゆく。日本列島がぐんとこちらに引寄せられる。八丈島の上で二つに岐《わか》れた編隊の一つは、まっすぐ富士山の方に向い、他は、熊野灘《くまのなだ》に添って紀伊水道の方へ進む。が、その編隊から、いま一機がふわりと離れると、室戸岬《むろとみさき》を越えて、ぐんぐん土佐湾に向ってゆく。……青い平原の上に泡《あわ》立ち群がる山脈が見えてくるが、その峰を飛越えると、鏡のように静まった瀬戸内海だ。一機はその鏡面に散布する島々を点検しながら、悠然《ゆうぜん》と広島湾上を舞っている。強
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