立たされて、予備少尉の話をきかされている時、正三は気もそぞろであった。訓練が了えて、家へ戻ったかとおもうと、サイレンが鳴りだすのだった。だが、つづいて空襲警報が鳴りだす頃には、正三はぴちんと身支度を了えている。あわただしい訓練のつづきのように、彼は闇の往来へ飛出すのだ。それから、かっかと鳴る靴音をききながら、彼は帰宅を急いでいる者のような風を粧《よそお》う。橋の関所を無事に通越すと、やがて饒津裏の堤へ来る。ここではじめて、正三は立留り、叢に腰を下ろすのであった。すぐ川下の方には鉄橋があり、水の退《ひ》いた川には白い砂洲《さす》が朧に浮上っている。それは少年の頃からよく散歩して見憶《みおぼ》えている景色だが、正三には、頭上にかぶさる星空が、ふと野戦のありさまを想像さすのだった。『戦争と平和』に出て来る、ある人物の眼に映じる美しい大自然のながめ、静まりかえった心境、――そういったものが、この己の死際《しにぎわ》にも、はたして訪れて来るだろうか。すると、ふと正三の蹲っている叢のすぐ上の杉の梢《こずえ》の方で、何か微妙な啼声がした。おや、ほととぎすだな、そうおもいながら正三は何となく不思議な気持がした。この戦争が本土決戦に移り、もしも広島が最後の牙城《がじょう》となるとしたら、その時、己は決然と命を捨てて戦うことができるであろうか。……だが、この街が最後の楯《たて》になるなぞ、なんという狂気以上の妄想《もうそう》だろう。仮りにこれを叙事詩にするとしたら、最も矮小《わいしょう》で陰惨かぎりないものになるに相違ない。……だが、正三はやはり頭上に被《かぶ》さる見えないものの羽挙《はばたき》を、すぐ身近にきくようなおもいがするのであった。
 警報が解除になり、清二の家までみんな引返しても、正三はこの玄関で暫くラジオをきいていることがあった。どうかすると、また逃げださなければならぬので、甥も姪もまだ靴のままでいる。だが、大人達がラジオに気をとられているうち、さきほどまで声のしていた甥が、いつのまにか玄関の石の上に手足を投出し、大鼾《おおいびき》で睡《ねむ》っていることがあった。この起伏常なき生活に馴れてしまったらしい子供は、まるで兵士のような鼾をかいている。(この姿を正三は何気なく眺めたのであったが、それがやがて、兵士のような死に方をするとはおもえなかった。まだ一年生の甥は集団疎開へ
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