し眺めたのだった。うかうかしてはいられない。火はもう踵《かかと》に燃えついて来たのだ、――そう呟《つぶや》きながら、一刻も早く自宅に駈《か》けつけようとした。電車はその朝も容易にやって来ず、乗客はみんな茫《ぼう》とした顔つきであった。順一が事務室に現れたのは、朝の陽《ひ》も大分高くなっていた頃であったが、ここにも茫とした顔つきの睡《ねむ》そうな人々ばかりと出逢《であ》った。
「うかうかしている時ではない。早速、工場は疎開させる」
順一は清二の顔を見ると、すぐにそう宣告した。ミシンの取りはずし、荷馬車の下附を県庁へ申請すること、家財の再整理。――順一にはまた急な用件が山積した。相談相手の清二は、しかし、末節に疑義を挿《はさ》むばかりで、一向てきぱきしたところがなかった。順一はピシピシと鞭《むち》を振いたいおもいに燃立つのだった。
その翌々日、こんどは広島の大空襲だという噂《うわさ》がパッと拡った。上田が夕刻、糧秣廠《りょうまつしょう》からの警告を順一に伝えると、順一は妹を急《せ》かして夕食を早目にすまし、正三と康子を顧みて云った。
「儂《わし》はこれから出掛けて行くが、あとはよろしく頼む」
「空襲警報が出たら逃げるつもりだが……」正三が念を押すと順一は頷《うなず》いた。
「駄目らしかったらミシンを井戸へ投込んでおいてくれ」
「蔵の扉を塗りつぶしたら……今のうちにやってしまおうかしら」
ふと、正三は壮烈な気持が湧《わ》いて来た。それから土蔵の前に近づいた。かねて赤土は粘《ね》ってあったが、その土蔵の扉を塗り潰《つ》ぶすことは、父の代には遂《つい》に一度もなかったことである。梯子《はしご》を掛けると、正三はぺたぺたと白壁の扉の隙間《すきま》に赤土をねじ込んで行った。それが終った頃順一の姿はもうそこには見えなかった。正三は気になるので、清二の家に立寄ってみた。「今夜が危いそうだが……」正三が云うと、「ええ、それがその秘密なのだけど近所の児島さんもそんなことを夕方役所からきいて帰り……」と、何か一生懸命、袋にものを詰めながら光子はだらだらと弁じだした。
一とおり用意も出来て、階下の六畳、――その頃正三は階下で寝るようになっていた、――の蚊帳《かや》にもぐり込んだ時であった。ラジオが土佐沖海面警戒警報を告げた。正三は蚊帳の中で耳を澄ました。高知県、愛媛県が警戒警報にな
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