オは硫黄島《いおうじま》の急を告げていた。話はとかく戦争の見とおしになるのであった。清二はぽつんと懐疑的なことを口にしたし、正三ははっきり絶望的な言葉を吐いた。……夜間、警報が出ると、清二は大概、事務所へ駈《か》けつけて来た。警報が出てから五分もたたない頃、表の呼鈴が烈《はげ》しく鳴る。寝呆《ねぼ》け顔《がお》の正三が露次の方から、内側の扉を開けると、表には若い女が二人佇んでいる。監視当番の女工員であった。「今晩は」と一人が正三の方へ声をかける。正三は直《じ》かに胸を衝《つ》かれ、襟《えり》を正さねばならぬ気持がするのであった。それから彼が事務室の闇《やみ》を手探りながら、ラジオに灯りを入れた頃、厚い防空頭巾《ぼうくうずきん》を被《かぶ》った清二がそわそわやって来る。「誰かいるのか」と清二は灯の方へ声をかけ、椅子に腰を下ろすのだが、すぐにまた立上って工場の方を見て廻った。そうして、警報が出た翌朝も、清二は早くから自転車で出勤した。奥の二階でひとり朝寝をしている正三のところへ、「いつまで寝ているのだ」と警告しに来るのも彼であった。
今も正三はこの兄の忙しげな容子にいつもの警告を感じるのであったが、清二は『希臘芸術模倣論』を元の位置に置くと、ふとこう訊《たず》ねた。
「兄貴はどこへ行った」
「けさ電話かかって、高須《たかす》の方へ出掛けたらしい」
すると、清二は微《かす》かに眼に笑《え》みを浮べながら、ごろりと横になり、「またか、困ったなあ」と軽く呟《つぶや》くのであった。それは正三の口から順一の行動について、もっといろんなことを喋《しゃべ》りだすのを待っているようであった。だが、正三には長兄と嫂《あによめ》とのこの頃の経緯《いきさつ》は、どうもはっきり筋道が立たなかったし、それに、順一はこのことについては必要以外のことは決して喋らないのであった。
正三が本家へ戻って来たその日から、彼はそこの家に漾《ただよ》う空気の異状さに感づいた。それは電燈に被せた黒い布や、いたるところに張りめぐらした暗幕のせいではなく、また、妻を喪《うしな》って仕方なくこの不自由な時節に舞戻って来た弟を歓迎しない素振ばかりでもなく、もっと、何かやりきれないものが、その家には潜んでいた。順一の顔には時々、嶮《けわ》しい陰翳《いんえい》が抉《えぐ》られていたし、嫂の高子の顔は思いあまって茫《ぼ
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