われた。すると、正三の知らぬ人々が事務室に現れ、いろんなものをどこかから整えてくるのであった。順一の加わっている、さまざまなグルウプ、それが互に物資の融通をし合っていることを正三は漸《ようや》く気づくようになった。……その頃になると、高子と順一の長い間の葛藤《かっとう》は結局、曖昧《あいまい》になり、思いがけぬ方角へ解決されてゆくのであった。
 疎開の意味で、高子には五日市町の方へ一軒、家を持たす、そして森家の台所は恰度《ちょうど》、息子を学童疎開に出して一人きりになっている康子に委《ゆだ》ねる、――そういうことが決定すると、高子も晴れがましく家に戻って来て、移転の荷拵《にごしら》えをした。だが、高子にもまして、この荷造に熱中したのは順一であった。彼はいろんな品物に丁寧に綱をかけ、覆《おお》いや枠《わく》を拵えた。そんな作業の合間には、事務室に戻り、チェック・プロテクターを使ったり、来客と応対した。夜は妹を相手にひとりで晩酌をした。酒はどこかから這入って来たし、順一の機嫌《きげん》はよかった……
 と、ある朝、B29がこの街の上空を掠《かす》めて行った。森製作所の縫工場にいた学徒たちは、一斉に窓からのぞき、屋根の方へ匐《は》い出し、空に残る飛行機雲をみとれた。「綺麗《きれい》だわね」「おお速いこと」と、少女たちはてんでに嘆声を放つ。B29も、飛行機雲も、この街に姿を現したのはこれがはじめてであった。――昨年来、東京で見なれていた正三には久し振りに見る飛行機雲であった。
 その翌日、馬車が来て、高子の荷は五日市町の方へ運ばれて行った。「嫁入りのやりなおしですよ」と、高子は笑いながら、近所の人々に挨拶《あいさつ》して出発した。だが、四五日すると、高子は改めて近所との送別会に戻って来た。電気休業で、朝から台所には餅臼《もちうす》が用意されて、順一や康子は餅搗《もちつき》の支度《したく》をした。そのうちに隣組の女達がぞろぞろと台所にやって来た。……今では正三も妹の口から、この近隣の人々のことも、うんざりするほどきかされていた。誰と誰とが結托《けったく》していて、何処《どこ》と何処が対立し、いかに統制をくぐり抜けてみんなそれぞれ遣繰《やりくり》をしているか。台所に姿を現した女たちは、みんな一筋繩《ひとすじなわ》ではゆかぬ相貌《そうぼう》であったが、正三などの及びもつかぬ生活力
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