けて投身自殺を試みる。自殺は成功した。だが、死んだ筈の彼は、ふと気がつくと、一向に情況は変つてゐないのだ。両手片足の捩げた男、血まみれの裸女、全身糜爛の怪物、内臓の裂けて喰みだす子供、無数の亡者、無数の死体がすぐ彼の側を犇めきあひ、ぞろぞろと押されて進んで行く。ざわざわした人声のなかから、「もう墓地なんかありはしないよ」と鋭い悲しげな声が聴きとれる。どこへ、それでは何処へ?……どこへ行つたつて、もう君たちの憩へる場所はないのだ。)――かうした「悪意ある童話」の断片はいつとはなしに彼のなかに蓄積されてゐた。
「人間は一本の葦に過ぎない。自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考へる葦である。彼を圧し潰すには、全宇宙が武装するを要しない。一吹の蒸気、一滴の水でも彼を殺すに充分である。しかし……」
 彼がノートに書とめてゐるパスカルの言葉を読んできかせると、若い甥は目を輝かす。大学に籍はありながら、これまで殆ど纏つた勉強の出来なかつた甥は終戦後、飢ゑてゐるやうに書物を読みたがつた。だが、この二人が「考へる葦」として許されてゐる時間は極く限られてゐた。この部屋の主人公が戻つて来れば忽ち事情
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