しむものの最後のもののやうに、ひどく疼いてゐるやうに彼にはおもへた。「あなたのほんとうの気持を、それを少しきかせて下さい」彼は突然口走つた。
「もう少し歩いて行きませう」と女は濠端に添ふ道の方へ彼を誘つた。水の面や、夕暮の靄や、枯木の姿が、何かパセチツクな予感のやうにおもへた。女は黙つて慍つたやうな顔つきで歩いてゐる。何かを払ひのけようとする、その表情が何に堪へきれないのかと、彼はぼんやりと従いて歩いた。突然、女はビリビリと声を震はせた。
「別れなければならない日が参りました。明日、明日もう一度ここでこの時刻にお逢ひ到しませう」
さう云ひ捨てて、向側の舗道へ走り去つた。突然、それは彼にとつて、あまりに突然だつたのだが……。
女は翌日、約束の時刻に、その場所に姿を現してゐた。昨日と変つて、女は静かに落着いた顔つきだつた。がその顔には何か滑り堕ちるやうな冷やかなものと、底ぬけの夢のやうなものが絡みあつてゐる。
「遠いところから、遠いところから、わたしの愛人が戻つて参りました」
遠いところから、遠いところから、といふ声が彼には夢のなかの歌声のやうにおもへた。
「さうか、あなたは愛人があつたのか」
「いいえ、いいえ、愛人があつたところで、生きてゐることの切なさ、淋しさ、堪へきれなさは同じことで御座います」
生きていることの切なさ、淋しさ、堪へきれなさ、それも彼には遠いところから聴く歌声のやうにおもへた。
「それではあなたはどうして僕に興味を持つたんです」
「それはあなたが淋しさうだつたから、とてもとても堪へきれない位、淋しさうな方だつたから」
さう云ひながら、女は手袋を外して、手を彼の方へ差出した。
「生きてゐて下さい、生きて行つて下さい」
彼が右の手を軽く握つたとき、女は祈るやうに囁いてゐた。
底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「個性」
1949(昭和24)年5、6月合併号
※連作「原爆以後」の6作目。
※底本の本文中に使われている《》の記号は、ルビを表す記号と重複しているため、〈〉に置き換えました。
入力:ジェラスガイ
校正:大野晋
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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