けないうちに、田舎から新しい細君を娶つた。無数の変り果てた顔の渦巻いてゐた廃墟を、無数の生存者が歩き廻つた。廃墟の泥濘の上の闇市は祭日のやうであつた。人々はよろめきながら祭日をとり戻したのだらうか。僕もよろめきながら見て歩いた。今にもぶつ倒れさうな痩男がひらひらと紙幣を屋台に差出し、手で把んだものをもう口に入れてゐた。めらめらとゆらぐ焔は到る処にあつた。復員者はそこここに戻つて来て、崩壊した駅は雑踏して賑はつた。その妻子を閃光で攫はれた男は晴着を飾る新妻を伴つて歩いてゐた。速やかに、軽ろやかに、何気なく、そこここに新しい巣が営まれた。
「もう決して何も信じません。自分自身も……」
罹災を免れ家も壊されなかつた中年女は誇らかに嘯くのだが。……寡婦の妹は絶えず飢餓からの脱出を企ててゐた。リユツクを背負ふ面窶れした顔は、若々しい力を潜め、それが生きてゆくための最後の抗議、堕ちて来る火の粉を払はうとする表情となつてゐた。だが、どうかすると、それは血まみれの亡者の面影に見入つて、キヤツと叫ぶ最後の眼の色になつてゐる。悶え苦しむ眼つきで、この妹が僕に同情してくれると僕はぞつとした。たしかその眼は、もうあの白骨の姿を僕のうちに予想する眼だつた。
だが、その年が明けると、その妹にも急に再縁の話が持ち上つてゐた。その話をはじめてきいた日、僕は村の入口の橋のところで、リユツクを背負つてやつて来る妹とぱつたり出逢つた。立話をしてゐるうちに、僕はふと涙が滲んで来た。(涙が? それは後で考へてみると、人間一人餓死を免れたのを悦ぶ涙らしかつた。)だが、その僕はまだ助かつてはゐなかつた。焔は追つて来た。滅茶苦茶にあがき廻つた揚句、僕は東京の昔の友人のところへ逃げ込んだ。
だが、僕を迎へてくれた友人の家も忽ち不思議な焔に包囲された。飢餓の火はじりじりと燻んで、人間の白い牙はさつと現れた。一瞬にして、人間の顔は変貌する。人間は一瞬の閃光で変貌する。長い長い不幸が人間を変貌させたところで、何の不思議や嘆きがあらう。――日夜、その家の細君のいかつい顔つきに脅えながら、僕はひとり心に囁いてゐた。
紅の衣服にて育てられし者も今は塵堆を抱く――乞食のやうな足どりで、僕は雑踏のなかや、焼跡の路を歩いた。焼跡の塵堆に僕の眼はくらくらし、ひだるい膝は前にずんのめりさうだつた。と頭上にある青空が、さつと透き徹つて光を放つ。(この心の疼き、この幻想のくるめき)僕は眼も眩むばかりの美しい世界に視入らうとした。
それから、僕を置いてくれてゐたその家の主人は、ある日旅に出かけると、それきり帰つて来なかつた。暫くして、その友人は旅先で愛人を得てゐて、もう東京へは戻つて来ないことが判つた。それから僕はその家を立退かねばならなかつた。それから僕は宿なしの身になつてゐたのだが、それから……。苦悩が苦悩を追つて行く。――つみかさなる苦悩にむかつて跪き祈る女がゐた。
「一度わたしは鏡でわたしの顔を見せてもらつた。あれはもうわたしではなかつた。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕くはなかつた。怕いといふことまでもうわたしからは無くなつてゐるやうだ。わたしが滅びてゆく。わたしの靡爛した乳房や右の肘が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだらうか。
あのときサツと光が突然わたしの顔を斬りつけた。あつと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇はうとしてゐた。顔と手を同時に一つの速度が滑り抜けた。あつと思ひながらわたしはよろめいた。倒れてはゐなかつた。倒れてはゐないのがわかつた。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々としてゐるものが静まつて、崩れ落ちたものが、しーんとしてゐた。どこかで無数の小さな喚きが伝はつてくる。風のやうなものは通りすぎてゐたのに、風のやうなものの唸りがまだ迫つてくる。あのとき、すべてはもう終つてゐるのだ。だのに、これから何か始まりさうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」
「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌してゐたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はつきりしなかつた。が、独白の囁は絶えず聞えた。永遠の相に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘つてくる無限の展望……。突如、生の歓喜が、それは電撃の如くこの女を襲ひ、疾風よりも烈しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕かうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されてゐていいので御座いませうか、と、その女は感動してゐる自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。
こんな情景を追ひながらも、彼は絶えず生活に追詰められてゐた。それから長く休刊だつた雑誌が運転しだすと急に気忙しさが加はつた。雑誌社は何時出かけて行つても、来訪者が詰めかけてゐたし、原稿は机上に山積してゐた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があつた。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉み苦茶にする」と悲鳴をあげた。
(人間が人間を……)。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のやうに戦いてゐた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それらが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるへさせた。一人でも人間が僕の眼の前にゐたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散つた。僕は人間が滅茶苦茶に怕かつたのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだつた。しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのやうに熱烈に人間を恋し理解したく思つてゐたことか。
ところが今では、今でも僕が人生に於てぎこちないことは以前とかはりないが、それでも、人間と会ふとき前とは違ふ型が出来上つてしまつた。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスヰツチを入れる。すると、さつと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチツクに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知つてゐてくれるのだらうか――さういふ反省をする暇もなく、僕の前にゐる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごつちやになつて朧な暈のやうに僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡り込んでしまひさうだ。と突然、戦慄が僕の背筋を突走る。
「いけない、いけない、あの向うを射抜け」
何万ボルトの電流が叫びとなつて僕のなかを疾駆するのだ。
(人間が人間を……。その少女にとつて、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶の持続に他ならなかつた。すべてが奇異に縺《もつ》れ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼ない切ない魂は徒らに反転しながら泣号する。「生きてゐること、生きてゐることが、こんなに、こんなに辛い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽やかなものが訪れる。それから向側にぽつかりと新しい空間が見えてくる。)
「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしてゐた。そのうち仕事の関係で彼は盛場裏の酒場や露路奥の喫茶店に足を踏入れることが急に増えて来た。すると、アルコールが、それは彼にとつて戦後はじめてと云つていいのだつたが、彼の眼や脳髄に泌みてゆき、夜の狭い裏通には膨れ上つてゆらぐ空間が流れた……。彼の腰掛けてゐる椅子のすぐ後を奇妙な身なりの少年や青年がざわざわと揺れてゆく。屋台では若い女が一つのアクセントのやうに絶えず身動きしながら、揺れてゐるものに取まかれてゐる。眼はニスを塗つたやうにピカピカし、ルージユで濡れた唇は血のやうだ。あれが女の眼であり、唇かと僕はおもふ。揺れてゐるガス体は今にも何かパツと発火しさうだ。だが、僕の靴底を奇妙に冷たいものが流れる。どうにもならぬ冷たいものが……。あの女も恐らく炎々と燃える焔に頬を射られ、跣で地べたを走り廻つたのか。今も何かを避けようとしたり、何かに喰らひつかうとするリズムが、それも揺れてゐる。めらめらと揺れてゐる。それにしても、彼の靴底を流れてゆく冷たいものは……。ふと、彼の腰掛のすぐ後に、ふらふらの学生が近寄つてくる。自分の上衣のポケツトからコツプを取出し、それに酒を注いでもらつてゐる。「いいなあ、いいなあ、人間が信じられたならなあ」とその学生は甘つたれの表情でよろよろしてゐる。冷たいものはざわざわと揺れる。火が、火が、火が、だが、火はもうここにはなささうだ。火事場の跡のここは水溜りなのか。
水溜りを踏越えたかと思ふと、彼の友人が四つ角のもの蔭で「夜の女」と立話してゐる。それからその女は黙つて二人の後をついて来る。薄暗い喫茶店の隅に入る。(どうして、そんな「夜の女」などになつたのです)親切な友人は女に話しかけてみる。(家があんまり……家では暮らせないので飛出しました)小さないぢけた鼻頭が、ひつぱたけ、何なりとひつぱたけと、そのやうに、そのやうに、歪んだやうに彼の目にうつる。それからテーブルの下にある女の足が、その足に穿いてゐる侘しい下駄が、ふと彼の眼に触れる。あ、下駄、下駄、下駄……冷たいものの流れが……(ぢやあお茶だけで失敬するよ)親切な友人は喫茶店の外で女と別れる。おとなしい女だ。そのまま女は頷いて別れる。
それからまた、ある日は、この親切な友人が彼を露地の奥の喫茶店へ連れて行く。と、テーブルといふテーブルが人間と人間の声で沸騰してゐる。濛々と渦巻く煙草の煙のなかから、声が、顔が、わざとらしいものが、ねちこいものが、どうにもならないものが、聞え、見え、閃くなかを、腫れつぽい頬のギラギラした眼の少女がお茶を運んでゐる。(ここでも、人間が人間を……。だが、人間が人間と理解し合ふには、ここでは二十種類位の符牒でこと足りる。たとへば、
清潔 立派 抵抗 ひねる 支へる 崩れる ハツタリ ずれ カバア フイクシヨン etc.
そんな言葉の仕組だけで、お互がお互を刺戟し、お互に感激し、そして人間は人間の観念を確かめ合ひ、人間は人間の観念を生産してゆく。だが、僕の靴底を流れるこの冷たい流れ、これは一たい何なのだ。)……ふと、気がつくと、向のテーブルでさつきまで議論に熱狂してゐた連中の姿も今はない。夜更が急に籐椅子の上に滑り堕ちてゐる。隣の椅子で親切な友人はギラギラした眼の少女と話しあつてゐる。(お腹がすいたな、何か食べに行かないか)友人は少女を誘ふ。(ええ、わたしとても貧乏なのよ)少女は二人の後について夜更の街を歩く。冷たい雨がぽちぽち降つてくる。彼の靴底はすぐ雨が泌みて、靴下まで濡れてゆく。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもなささうだ。(君もそんな靴はいてゐて、雨が泌みるだらう)彼はふと少女に訊ねてみる。(ええ 泌みるわ とても)少女はまるでうれしげに肯く。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもない。(わたし帰るわ)少女は冷たい水溜のなかに靴を突込んで立留まる。
「火の唇」はいつまでたつても容易に捗らなかつた。そして彼がそれをまだ書き上げないうちに、その淋しげな女とも別れなければならぬ日がやつて来たのだ。その後もその女とは裏通りなどでパツたり行逢つてゐた。一緒に歩く時間も長くなつたし、一緒に喫茶店に入ることもあつた。人生のこと、恋愛のこと、お天気のこと、文学のこと、女は何でもとり混ぜて喋り、それから凝と遠方を眺める顔つきをする。絶えず何かに気を配つてゐるところと、底抜けの夢みがちなところがあつて、それが彼にとつては一つの謎のやうだつた。お天気のこと、人生のこと、恋愛のこと、文学のこと、彼は女の喋る言葉に聴き惚れることもあつたが、何かがパツたり滑り堕ちるやうな気もした。
ああして、女がこの世に一人存在してゐること、それは一たい何なのだ……その謎が次第に彼を圧迫し強迫するやうになつてゐた。それから、ある日、何故か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦
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