しむものの最後のもののやうに、ひどく疼いてゐるやうに彼にはおもへた。「あなたのほんとうの気持を、それを少しきかせて下さい」彼は突然口走つた。
「もう少し歩いて行きませう」と女は濠端に添ふ道の方へ彼を誘つた。水の面や、夕暮の靄や、枯木の姿が、何かパセチツクな予感のやうにおもへた。女は黙つて慍つたやうな顔つきで歩いてゐる。何かを払ひのけようとする、その表情が何に堪へきれないのかと、彼はぼんやりと従いて歩いた。突然、女はビリビリと声を震はせた。
「別れなければならない日が参りました。明日、明日もう一度ここでこの時刻にお逢ひ到しませう」
 さう云ひ捨てて、向側の舗道へ走り去つた。突然、それは彼にとつて、あまりに突然だつたのだが……。
 女は翌日、約束の時刻に、その場所に姿を現してゐた。昨日と変つて、女は静かに落着いた顔つきだつた。がその顔には何か滑り堕ちるやうな冷やかなものと、底ぬけの夢のやうなものが絡みあつてゐる。
「遠いところから、遠いところから、わたしの愛人が戻つて参りました」
 遠いところから、遠いところから、といふ声が彼には夢のなかの歌声のやうにおもへた。
「さうか、あなたは愛人があ
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