今も彼が見上げる空の一角を横切つてゆくやうだ。茜色の水々しい空には微かに横雲が浮んでゐて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。
彼がその女と知遇つたのは、ある会合の席上であつた。火の気のないビルの一室は煙草の煙で濛々と悲しさうだつた。女は赤いマフラをしてゐた。その眼はビルの窓ガラスのやうに冷たかつた。二度目に遇つたのも、やはりその侘しいビルの一室であつた。会合が終つたとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。
「わたしと交際つてみて下さい。またいつかお会ひ致しませう」
みて下さい……といま言葉が彼の意識に絡まつた。が、彼はさり気なく冷やかに肯いた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さへ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮してゐた。そんな部屋の片隅でノートに書いてゐた。
〈踏みはづすべき階段もなく、足は宙に浮いてゐる。もしかすると彼は堕落してゐるのだらうか。だが、僕の眼は真さかさまに上を向いてゐて、堕落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓喜も湧かない、すべては宙に浮んだ
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