のがあつた。赤いマフラをした女の眼だ。あの女……かもしれないと思つた瞬間、彼はもう視線を他へ外らしてゐた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められてゐた。
「平井さん かしらと思ひました」
 女はさう云つたまま笑はうとしなかつた。彼も無表情に立つてゐた。
「今日はこれから訪ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢ひできるでせう」
 ふと女は忙しさうに立去つて行つた。彼も呼び留めようとはしなかつた。

 そのビルの一室が開けてもらへるかどうかはつきりしなかつたが、彼の全家財を積んだ一台のリヤカーはもうその建物の前に停まつてゐた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下ろして云つた。
「部屋なんか開ける約束になつてゐない」
 彼はドキリとした。とにかくKに逢つてみれば解ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらはねば、差当つて他へ持つて行ける所もなかつた。
「それなら土間のところへ勝手にお置きなさい」
 夜具と行李とトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行つた。忽ち揺れ返る空間が大きくなつてゐた。鉈を振るつて彼の手首を断ち切らうとするのが、先刻の老人のやうにおもへたりする。ふらふらと歩いて行くうち、ふと彼は知人のKが弁護士らしい男と連れだつてゐるのに出喰はした。Kはその所有してゐるビルを他に貸してゐたが、その半分を自分の側に開け渡さすため前々から交渉に交渉を重ねてゐた。約束の日は今日だつた。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらつたのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲してゐた。襖と廊下を隔てて向側にある事務室は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間を捻ぢ伏せたり、人間が人間を撫でまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女も男もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかはりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下を鼠の一群が跳梁する。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かを煽り、何かが何かと交錯して来た。
 そのビルの一室に移つてから、彼はあの淋しげな女と
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