逢うようになっていた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分った。電車通りから少し外《はず》れると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いていることがあった。路でばったりと彼と出逢うと、女はすぐ人懐《ひとなつこ》そうに彼に従《つ》いて歩いた。
「お忙しいでしょう、失礼します」
女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。忙しそうなものに掻き立てられてゆく後姿だけが彼の眼に残った。何度、行逢っても、あっけない遭遇にすぎなかったが、女は人混みのなかでも彼の姿をすぐ見わけた。女が雑沓のなかに消え去ると、……揺れ返る空間の波が忽ち大きくなる。ああして、女がこの世に一人存在していること、それは一たい何なのだ? そして今ここで何なのだと僕が思考していること、それは一たい僕にとって何なのだ? と急にパセチックな波が昂《たか》まって、この世に苦しむものの、最後の最後の一番最後のものの姿がパッと閃光を放つ。
……火の唇 火の唇
ふと彼はその頃、書きたいと思っている一つの小説の囁《ささや》きをきいたようにおもった。
…………………………
前へ
次へ
全25ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング