最後にたった一度、別れの握手をとりかわした、たったそれだけの交渉にすぎなかった、淋《さび》しい淋しい物語だった。
いぶきが彼のなかを突抜けて行く。淋しい淋しい物語の後を追うように、彼は濠端に添う鋪道を歩いて行く。枯れた柳の木の柔かな影や、傍《かたわら》にある静かな水の姿が彼をうっとりと涙ぐまそうとする。すべてが終るところから、すべては新しく……彼はくるりと靴の踵《かかと》をかえして、胸を張り眼を見ひらく。と、風景も彼にむかって、胸を張り眼を見ひらいてくる。決然と分岐する鋪装道路や高層ビルの一|聯《れん》が、その上に展《ひろ》がる茜色《あかねいろ》の水々しい空が、突然、彼に壮烈な世界を投げかける。世界はまだ終ってはいないのだ。世界はあの時もまた新しく始ろうとしていた。あの時……原子爆弾で破滅した、あの街は、銀色に燻《くすぶ》る破片と赤く爛《ただ》れた死体で酸鼻《さんび》を極《きわ》めていた。傾いた夏の陽《ひ》ざしで空は夢のように茫《ぼう》と明るかった。橋梁《きょうりょう》は崩《くず》れ堕《お》ちず不思議と川の上に残されていた。その橋の上を生存者の群がぞろぞろと通過した。その橋の上で颯爽
前へ
次へ
全25ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング