鉈《なた》を振るって彼の手首を断ち切ろうとするのが、先刻の老人のようにおもえたりする。ふらふら歩いて行くうち、ふと彼は知人のKが弁護士らしい男と連れだっているのに出喰《でく》わした。Kはその所有しているビルを他に貸していたが、その半分を自分の側に開け渡さすため前々から交渉に交渉を重ねていた。約束の日は今日だった。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらったのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲していた。襖《ふすま》と廊下を隔てて向側にある事務所は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間を捻《ね》じ伏せたり、人間が人間を撫《な》でまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかわりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下を鼠《ねずみ》の一群が跳梁《ちょうりょう》する。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かを煽《あお》り、何かが何かと交錯して来た。
 そのビルの一室に移ってから、彼はあの淋《さび》しげな女とよく出逢うようになっていた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分った。電車通りから少し外《はず》れると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いていることがあった。路でばったりと彼と出逢うと、女はすぐ人懐《ひとなつこ》そうに彼に従《つ》いて歩いた。
「お忙しいでしょう、失礼します」
 女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。忙しそうなものに掻き立てられてゆく後姿だけが彼の眼に残った。何度、行逢っても、あっけない遭遇にすぎなかったが、女は人混みのなかでも彼の姿をすぐ見わけた。女が雑沓のなかに消え去ると、……揺れ返る空間の波が忽ち大きくなる。ああして、女がこの世に一人存在していること、それは一たい何なのだ? そして今ここで何なのだと僕が思考していること、それは一たい僕にとって何なのだ? と急にパセチックな波が昂《たか》まって、この世に苦しむものの、最後の最後の一番最後のものの姿がパッと閃光を放つ。
 ……火の唇   火の唇
 ふと彼はその頃、書きたいと思っている一つの小説の囁《ささや》きをきいたようにおもった。
    …………………………………………………………………………………
 燃え狂う真紅の焔《ほのお》が鎮《しず》まったかとおもうと、やがて、あの冷たい透き徹《とお》った不思議な焔がやって来た。飢餓の焔だ。兄の一家族や寡婦の妹と一緒に農家に避難した僕は、それから後、絶えずこのしぶとい悲しい焔に包囲されていた。それは台所の汚れかえった畳の上でも、煤《すす》けた穴だらけの障子の蔭《かげ》でもめらめらと燃えた。それから青田の上でも、向うに見える山の上でもめらめらと透き徹る焔はゆらいだ。空間が小刻みに顫《ふる》えて、頭の芯《しん》が茫《ぼう》として来る。このような時――人間は何を考えるのか――このような時、人間は人間の……人間の白い牙《きば》がさっと現れた。妹と嫂《あによめ》は絶えず何ごとか云って争っていた。
「口惜《くや》しくて、口惜しくて、あの嫁を喰《く》いちぎってやりたい」
 飢えてはいない隣家の農婦が庭さきで歯ぎしりしていた。その言葉は、しかし、ぴしりと僕を打った。喰いちぎってやりたい……人間が人間を喰いちぎる……一瞬にして変貌《へんぼう》する女の顔がパッと僕のなかで破裂したようだった。
 悲しげな無数の焔に包囲されて、僕が身動きもできないでいる時、しかし、人々は軽ろやかに動いていた。爆心地で罹災《りさい》して毛髪がすっかり脱けた親戚《しんせき》の男は、田舎《いなか》の奥で奇蹟《きせき》的に健康をとり戻し、惨劇の年がまだ明けないうちに、田舎から新しい細君を娶《めと》った。無数の変り果てた顔の渦巻いていた廃墟《はいきょ》を、無数の生存者が歩き廻った。廃墟の泥濘の上の闇市《やみいち》は祭日のようであった。人々はよろめきながら祭日をとり戻したのだろうか。僕もよろめきながら見て歩いた。今にもぶっ倒れそうな痩男《やせおとこ》がひらひらと紙幣を屋台に差出し、手で把《つか》んだものをもう口に入れていた。めらめらとゆらぐ焔は到《いた》る処《ところ》にあった。復員者はそこここに戻って来て、崩壊した駅は雑沓して賑《にぎ》わった。その妻子を閃光《せんこう》で攫《さら》われた男は晴着を飾る新妻《にいづま》を伴って歩いていた。速《すみ》やかに、軽ろやかに、何気なく、そこここに新しい巣が営まれた。
「もう決して何も信じません。自分自身も……」
 罹災を免れ家も壊《こわ》されなかった中年女は誇らかに嘯《うそぶ》くのだが。……
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