の重傷者がずらりと並んでいる。彼はそのなかから変りはてた少女を見つける。それは兄の家の女中なのだ。彼はその時から、苦しがる少女に附添って面倒をみる。ふくふくに腫《は》れ上った四肢《しし》を支《ささ》えてやると、少女の躯《からだ》とも思えぬほど無気味だが、水を欲しがる唇《くちびる》は嬰児《えいじ》のように哀れだ。やがて、二晩の野宿の挙句《あげく》、彼は傷《きずつ》いた兄の家族と一緒に寒村の農家に避難する。だが、この少女だけは家に収容しきれず村の収容所に移される。ある日、彼はその女中のために蒲団《ふとん》を持って収容所を訪れる。板の間の筵《むしろ》の上にごろごろしている重傷者のなかに黒く腫れ上った少女の顔がある。その眼が、彼の姿を認めると、眼だけが少女らしくパッと甦《よみがえ》る。
「連れて帰って下さい、連れて帰って、みんなのところへ」
その眼は、眼だけで彼にとり縋《すが》ろうとしていた。
「それはそうしてあげたいのだが……」
彼はかすかに泣くように呟《つぶや》くと、持って来た蒲団をおくと、まるで逃げるようにして立去る。その後、少女は死亡したのだ。だが、あの悲しげな少女の眼つきはいつまでも彼のなかに突立っていた。
わたしと交際ってみて下さいと約束して、反対の方向に駅で別れた女の眼つきを彼は思い出そうとしていた。その眼は祈りを含んだ眼だろうか、彼のなかに突立ってくるだろうか、……何か揺れ返る空間の波間にみた幻のようにおもえた。
轟音《ごうおん》もろとも船は転覆する。巨濤《きょとう》が人間を攫《さら》い閃光《せんこう》が闇《やみ》を截切《たちき》る。あたり一めん人間の叫喚……。叫ぶように波を掻《か》き分け、喚《わめ》くように波に押されながら、恐しい渦のなかに彼はいる。しぶきが頬桁《ほおげた》を撲《なぐ》り、水が手足を捩《も》ぎとろうとする、刻々に苦しくなってゆく波に、ふと仄明《ほのあか》りに漾《ただよ》っているボートが映る。と、その方向へひたすら、そこへ、一インチ、一インチとすべてが蠕動《ぜんどう》してゆく。が、漸《ようや》く近づいたボートは既に遭難者で一杯なのだ。彼は無我夢中でボートの端に手を掛ける。と、忽《たちま》ち頭上で鋭い怒声がする。
「離せ! この野郎!」
だが、彼は必死で船の方へ匐《は》い上ろうとする。
「こん畜生! その手をぶった切るぞ!」
いま相手はほんとに鉈《なた》を振上げて彼の手を覘《ねら》っているのだ。彼は縋りつくように、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくように、波間から……波間から……波間から……。
宿なしの彼は同室者に対する気兼ねから、饉《ひも》じい体を鞭《むち》打ちながら、いつも用ありげに巷《ちまた》の雑沓《ざっとう》のなかを歩いていた。金はなく、彼の関係している雑誌も久しく休刊したままだった。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらえるかもしれないという微かな望みがあったが、いつも波間に漾っているような気持で雑沓のなかを歩いていた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたっぷり降り灑《そそ》ぎ、人通りは密になっていた。省線駅の広場の方まで来ていたのだ。その時、恰度《ちょうど》電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散って行くのだった。彼は何気なく一|塊《かたま》りの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカッと一直線に閃《ひらめ》くものがあった。赤いマフラをした女の眼だ。……あの女かもしれないと思った瞬間、彼はもう視線を他へ外《そ》らしていた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められていた。
「平井さん……かしらと思いました」
女はそう云ったまま笑おうとしなかった。彼も無表情に立っていた。
「今日はこれから訪《たず》ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢いできるでしょう」
ふと女は忙しそうに立去って行った。彼も呼び留めようとはしなかった。
そのビルの一室が開けてもらえるかどうかはっきりしなかったが、彼の全財産を積んで一台のリヤカーはもうその建物の前に停《とま》っていた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々《もうもう》と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下して云った。
「部屋なんか開ける約束になっていない」
彼はドキリとした。とにかくKに逢ってみれば解《わか》ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらわねば、差当って他へ持って行ける所もなかった。
「それなら土間のところへ勝手に置きなさい」
夜具と行李《こうり》とトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行った。忽《たちま》ち揺れ返る空間が大きくなっていた。
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