。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるえさせた。一人でも人間が僕の眼の前にいたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散った。僕は人間が滅茶苦茶に怕《こわ》かったのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだった。しかも、そんなに戦き脅《おび》えながら、僕はどのように熱烈に人間を恋し理解したく思っていたことか)
ところが今では、今でも僕が人生に於《おい》てぎこちないことは以前とかわりないが、それでも、人間と会うとき前とは違う型が出来上ってしまった。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスイッチを入れる。すると、さっと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチックに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知っていてくれるのだろうか――そういう反省をする暇もなく、僕の前にいる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごっちゃになって朧《おぼろ》な暈《かさ》のように僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡《ねむ》り込んでしまいそうだ。と突然、戦慄《せんりつ》が僕の背筋を突走る。
「いけない、いけない、あの向うを射抜け」
何万ボルトの電流が叫びとなって僕のなかを疾駆するのだ。
(人間が人間を……。その少女にとって、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶《くもん》の持続に他《ほか》ならなかった。すべてが奇異に縺《もつ》れ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂《と》ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼い切ない魂は徒《いたず》らに反転しながら泣号する。「生きていること、生きていることが、こんなに、こんなに辛《つら》い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽《さわ》やかなものが訪れる。それから向側にぽっかりと新しい空間が見えてくる)
「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしていた。そのうち仕事の関係で彼は盛場裏の酒場や露次奥の喫茶店に足を踏み入れることが急に増《ふ》えて来た。すると、アルコールが、それは彼にとって戦後はじめてと云っていいのだったが、彼の眼や脳髄に沁《し》みてゆき、夜の狭い裏通りには膨《ふく》れ上ってゆらぐ空間が流れた。……彼の腰掛けている椅子のすぐ後を奇妙な身なりの少年や青年がざわざわと揺れて動く。屋台では若い女が一つのアクセントのように絶えず身動きしながら、揺れているものに取まかれている。眼はニスを塗ったようにピカピカし、ルージュで濡《ぬ》れた唇《くちびる》は血のようだ。あれが女の眼であり、唇かと僕はおもう。揺れているガス体は今にも何かパッと発火しそうだ。だが、僕の靴底を奇妙に冷たいものが流れる。どうにもならぬ冷たいものが……。あの女も恐らく炎々と燃える焔に頬《ほお》を射られ、跣《はだし》で地べたを走り廻ったのか。今も何かを避けようとしたり、何かに喰らいつこうとするリズムが、それも揺れている。めらめらと揺れている。それにしても、僕の靴底を流れてゆく冷たいものは……。ふと、彼の腰掛のすぐ後に、ふらふらの学生が近寄ってくる。自分の上衣《うわぎ》のポケットからコップを取出し、それに酒を注《つ》いでもらっている。
「いいなあ、いいなあ、人間が信じられたらなあ」とその学生は甘ったれた表情でよろよろしている。冷たいものはざわざわとゆれる。火が、火が、火が、だが、火はもうここにはなさそうだ。火事場の跡のここは水溜《みずたま》りなのか。
水溜りを踏越えたかと思うと、彼の友人が四つ角のもの蔭《かげ》で「夜の女」と立話している。それからその女は黙って二人の後をついて来る。薄暗い喫茶店の隅《すみ》に入る。(どうして、そんな「夜の女」などになったのです)親切な友人は女に話しかけてみる。(家があんまり……家では暮らせないので飛出しました)小さないじけた鼻頭が、ひっぱたけ、何なりとひっぱたけと、そのように、そのように、歪《ゆが》んだように彼の目にうつる。それからテーブルの下にある女の足が、その足に穿《は》いている佗《わび》しい下駄が、ふと彼の眼に触れる。あ、下駄、下駄、下駄……冷たいものの流れが……(じゃあお茶だけで失敬するよ)親切な友人は喫茶店の外で女と別れる。おとなしい女だ。そのまま女は頷《うなず》いて別れる。
それからまた、ある日は、この親切な友人が彼を露次の奥の喫茶店へ連れて行く。と、テーブルというテーブルが人間と人間の声で沸騰している。濛々と渦巻く煙草の煙のなかから、声が、顔が、わざとらしいものがねちこいものが、どうにもならないものが、聞え、見え、閃くなかを、腫《は》れぼったい頬のギラギラした眼の少女が
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