手はほんとに鉈《なた》を振上げて彼の手を覘《ねら》っているのだ。彼は縋りつくように、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくように、波間から……波間から……波間から……。
宿なしの彼は同室者に対する気兼ねから、饉《ひも》じい体を鞭《むち》打ちながら、いつも用ありげに巷《ちまた》の雑沓《ざっとう》のなかを歩いていた。金はなく、彼の関係している雑誌も久しく休刊したままだった。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらえるかもしれないという微かな望みがあったが、いつも波間に漾っているような気持で雑沓のなかを歩いていた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたっぷり降り灑《そそ》ぎ、人通りは密になっていた。省線駅の広場の方まで来ていたのだ。その時、恰度《ちょうど》電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散って行くのだった。彼は何気なく一|塊《かたま》りの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカッと一直線に閃《ひらめ》くものがあった。赤いマフラをした女の眼だ。……あの女かもしれないと思った瞬間、彼はもう視線を他へ外《そ》らしていた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められていた。
「平井さん……かしらと思いました」
女はそう云ったまま笑おうとしなかった。彼も無表情に立っていた。
「今日はこれから訪《たず》ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢いできるでしょう」
ふと女は忙しそうに立去って行った。彼も呼び留めようとはしなかった。
そのビルの一室が開けてもらえるかどうかはっきりしなかったが、彼の全財産を積んで一台のリヤカーはもうその建物の前に停《とま》っていた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々《もうもう》と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下して云った。
「部屋なんか開ける約束になっていない」
彼はドキリとした。とにかくKに逢ってみれば解《わか》ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらわねば、差当って他へ持って行ける所もなかった。
「それなら土間のところへ勝手に置きなさい」
夜具と行李《こうり》とトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行った。忽《たちま》ち揺れ返る空間が大きくなっていた。
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