お茶を運んでいる。(ここでも、人間が人間を……。だが、人間が人間と理解し合うには、ここでは二十種類位の符牒《ふちょう》でこと足りる。たとえば、
 清潔 立派 抵抗 ひねる 支える 崩れる ハッタリ ずれ カバア フィクション etc,
 そんな言葉の仕組だけで、お互がお互を刺戟《しげき》し、お互に感激し、そして人間は人間の観念を確かめ合い、人間は人間の観念を生産してゆく。だが、僕の靴底を流れるこの冷たい流れ、これは一たい何なのだ。)……ふと気がつくと、向うのテーブルでさっきまで議論に熱狂していた連中の姿も今はない。夜更《よふけ》が急に籐椅子《とういす》の上に滑《すべ》り堕《お》ちている。隣の椅子で親切な友人はギラギラした眼の少女と話しあっている。(お腹《なか》がすいたな、何か食べに行かないか)友人は少女を誘う。(ええ、わたしとても貧乏なのよ)少女は二人の後について夜更の街を歩く。冷たい雨がぽちぽち降ってくる。彼の靴底はすぐ雨が沁《し》みて、靴下まで濡れてゆく。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもなさそうだ。(君もそんな靴はいていて、雨が沁みるだろう)彼はふと少女に訊ねてみる。(ええ 沁みるわ とても)少女はまるでうれしげに肯《うなず》く。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもない。(わたし帰るわ)少女は冷たい水溜りのなかに靴を突込んで立留る。

「火の唇」はいつまでたっても容易に捗《はかど》らなかった。そして彼がそれをまだ書き上げないうちに、その淋しげな女とも別れなければならぬ日がやって来たのだ。その後もその女とは裏通りなどでパッタリ行逢っていた。一緒に歩く時間も長くなったし、一緒に喫茶店に入ることもあった。人生のこと、恋愛のこと、お天気のこと、文学のこと、女は何でもとり混ぜて喋り、それから凝《じっ》と遠方を眺《なが》める顔つきをする。絶えず何かに気を配っているところと、底抜けの夢みがちなところがあって、それが彼にとっては一つの謎《なぞ》のようだった。お天気のこと、恋愛のこと、文学のこと、彼は女の喋る言葉に聴《き》き惚《ほ》れることもあったが、何かがパッタリ滑り堕ちるような気もした。
 ああして、女がこの世に一人存在していること、それは一たい何なのだ……その謎が次第に彼を圧迫し脅迫するようになっていた。それから、ある日、何故《なぜ》か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦し
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