はなかった。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕《こわ》くはなかった。怕いということまでもうわたしからは無くなっているようだ。わたしが滅びてゆく。わたしの糜爛《びらん》した乳房や右の肘《ひじ》が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだろうか。
 あのときサッと光が突然わたしの顔を斬《き》りつけた。あっと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇《かば》おうとしていた。顔と手を同時に一つの速度が滑《すべ》り抜けた。あっと思いながらわたしはよろめいた。倒れてはいないのがわかった。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸《うな》る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々《もうもう》としているものが静まって、崩れ落ちたものがしーんとしていた。どこかで無数の小さな喚《わめ》きが伝わってくる。風のようなものは通りすぎていたのに、風のようなものの唸りがまだ迫ってくる。あのとき、すべてはもう終っているのだ。だのに、これから何か始りそうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」
「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌《しる》していたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はっきりしなかった。が、独白の囁きは絶えず聞えた。永遠の相《すがた》に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘《わた》ってくる無限の展望。……突如、生の歓喜が、それは電撃の如《ごと》くこの女を襲い、疾風よりも烈《はげ》しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕こうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されていていいので御座いましょうか、と、その女は感動している自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。
 こんな情景を追いながらも、彼は絶えず生活に追詰められていた。それから長く休刊だった雑誌が運転しだすと急に気忙《きぜわ》しさが加わった。雑誌社は何時《いつ》出かけて行っても、来訪者が詰めかけていたし、原稿は机上に山積していた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があった。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉《も》み苦茶《くちゃ》にする」と悲鳴をあげた。
(人間が人間を……。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のように戦《おのの》いていた
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング