僕は風景を噛む
ああ 噛みあふ二つの お前と僕
[#ここで字下げ終わり]
僕は日没前の時刻が僕をここへ誘ひだすのを知つてゐる。この濠端の舗道まで来れば、冷え冷えしたものが何か却つて僕を温めてくれるのだ。僕のすぐ側を自動車はひききりなしに流れてゆくが、僕の頭上の空はひつそりとして少しづつ光線が薄らいでゆく。僕の眼は今はじめて見るやうに洋館の上の煙突を見上げる。黒い煙の塊りが黙々として浮いて動いてゐるのだ。そのすぐ側にはまだ色のつかない三日月が見えてゐる。僕はあの三日月が僕が向うの橋のところまで歩いて行くうちに光を帯びてくるのを知つてゐる。濠の水を隔てて石崖の上に枝葉を展げて乱舞してゐるやうな一本の樹木……。その緑色の葉は消えてゆく最後の灯のやうに僕の眼に残る。僕はこのあたりの樹木が真夏の光線にくらくら燃え立つてゐたのをまだ憶えてゐる。だが、今、僕の歩いて行く前に見えてくる木々は薄すらと空気に溶け入つてしまひさうだ。空気はそのやうに顫へてゐるのだらうか。顫へてゐるのは僕なのだらうか。それとも死んだお前だらうか。この踵のすり減つてしまつた靴、この着古して紙のやうに脆くなつたオーバー、僕は
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