私は最後に、ポックリ折れ曲った楓の側を踏越えて出て行った。
 その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久し振りに郷里の家に帰って暮すようになってからは、どうも、もう昔のような潤《うるお》いのある姿が、この樹木からさえ汲《く》みとれないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪《うしな》って、何か残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に這入って行くたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮んでいた。

 Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除《よ》けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許《あしもと》が平坦《へいたん》な地面に達し、道路に出ていることがわかる。すると今度は急ぎ足でとっとと道の中ほどを歩く。ぺしゃんこになった建物の蔭《かげ》からふと、「おじさん」と喚く声がする。振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅《おび》えきった相で一生懸命ついて来る。暫《しばら》く行くと、路上に立はだかって、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のように泣喚いている老女と出逢《であ》った。煙は崩れた家屋のあちこちから立昇っていたが、急に焔の息が烈《はげ》しく吹きまくっているところへ来る。走って、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋の袂《たもと》に私達は来ていた。ここには避難者がぞくぞく蝟集《いしゅう》していた。
「元気な人はバケツで火を消せ」と誰かが橋の上に頑張っている。私は泉邸《せんてい》の藪《やぶ》の方へ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまった。
 その竹藪は薙《な》ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径《みち》が自然と拓《ひら》かれていた。見上げる樹木もおおかた中空で削《そ》ぎとられており、川に添った、この由緒《ゆいしょ》ある名園も、今は傷だらけの姿であった。ふと、灌木《かんぼく》の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲《うずくま》っている中年の婦人の顔があった。魂の抜けはてたその顔は、見ているうちに何か感染しそうになるのであった。こんな顔に出喰わしたのは、これがはじめてであった。が、それよりもっと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰わさねばならなかった。
 川岸に出
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