この堤を通って、その河原に魚を獲《と》りに来たことがある。その暑い日の一日の記憶は不思議にはっきりと残っている。砂原にはライオン歯磨《はみがき》の大きな立看板があり、鉄橋の方を時々、汽車が轟《ごう》と通って行った。夢のように平和な景色があったものだ。
夜が明けると昨夜の声は熄《や》んでいた。あの腸《はらわた》を絞る断末魔の声はまだ耳底に残っているようでもあったが、あたりは白々と朝の風が流れていた。長兄と妹とは家の焼跡の方へ廻り、東練兵場に施療所があるというので、次兄達はそちらへ出掛けた。私もそろそろ、東練兵場の方へ行こうとすると、側《そば》にいた兵隊が同行を頼んだ。その大きな兵隊は、余程ひどく傷ついているのだろう、私の肩に凭掛《よりかか》りながら、まるで壊れものを運んでいるように、おずおずと自分の足を進めて行く。それに足許《あしもと》は、破片といわず屍《しかばね》といわずまだ余熱を燻《くすぶ》らしていて、恐しく嶮悪《けんあく》であった。常盤橋《ときわばし》まで来ると、兵隊は疲れはて、もう一歩も歩けないから置去りにしてくれという。そこで私は彼と別れ、一人で饒津公園の方へ進んだ。ところどころ崩れたままで焼け残っている家屋もあったが、到《いた》る処、光の爪跡《つめあと》が印されているようであった。とある空地《あきち》に人が集っていた。水道がちょろちょろ出ているのであった。ふとその時、姪《めい》が東照宮の避難所で保護されているということを、私は小耳に挿《はさ》んだ。
急いで、東照宮の境内へ行ってみた。すると、いま、小さな姪は母親と対面しているところであった。昨日、橋のところで女中とはぐれ、それから後は他所《よそ》の人に従《つ》いて逃げて行ったのであるが、彼女は母親の姿を見ると、急に堪《た》えられなくなったように泣きだした。その首が火傷《やけど》で黒く痛そうであった。
施療所は東照宮の鳥居の下の方に設けられていた。はじめ巡査が一通り原籍年齢などを取調べ、それを記入した紙片を貰《もろ》うてからも、負傷者達は長い行列を組んだまま炎天の下にまだ一時間位は待たされているのであった。だが、この行列に加われる負傷者ならまだ結構な方かもしれないのだった。今も、「兵隊さん、兵隊さん、助けてよう、兵隊さん」と火のついたように泣喚《なきわめ》く声がする。路傍に斃《たお》れて反転する火傷の
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