るにしてもまだ準備が整はなかつた。私は押入から寝巻をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座蒲団も拾つた。縁側の畳をはねくり返してみると、持逃げ用の雑嚢が出て来た。私は吻としてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔の姿が見えだした。いよいよ逃げだす時機であつた。私は最後に、ポツクリ折れ曲つた楓の側を踏越えて出て行つた。
 その大きな楓は昔から庭の隅にあつて、私の少年時代、夢想の対象となつてゐた樹木である。それが、この春久振りに郷里の家に帰つて暮すやうになつてからは、どうも、もう昔のやうな潤ひのある姿が、この樹木からさへ汲みとれないのを、つくづく私は奇異に思つてゐた。不思議なのは、この郷里全体が、やはらかい自然の調子を喪つて、何か残酷な無機物の集合のやうに感じられることであつた。私は庭に面した座敷に這入つて行くたびに、「アツシヤ家の崩壊」といふ言葉がひとりでに浮んでゐた。

 Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許が平坦な地面に達し、道路に出てゐることがわかる。すると今度は急ぎ足でとつとと道の中ほ
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