夏の花
原民喜
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「けものへん+章」、第3水準1−87−80、12−上−3]
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わが愛する者よ請ふ急ぎはしれ
香はしき山々の上にありて※[#「けものへん+章」、第3水準1−87−80、12−上−3]の
ごとく小鹿のごとくあれ
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私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を歩いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。その花は何といふ名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかつた。
炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々しくなつたやうで、私はしばらく花と石に視入つた。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。持つて来た線香にマツチをつけ、黙礼を済ますと私はかたはらの井戸で水を呑んだ。それから、饒津公園の方を廻つて家に戻つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂がしみこんでゐた。原子爆弾に襲はれたのは、その翌々日のことであつた。
私は厠にゐたため一命を拾つた。八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかつたので、夜明前には服を全部脱いで、久振りに寝巻に着替へて睡つた。それで、起き出した時もパンツ一つであつた。妹はこの姿をみると、朝寝したことをぷつぷつ難じてゐたが、私は黙つて便所へ這入つた。
それから何秒後のことかはつきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加へられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思はずうわあ[#「うわあ」に傍点]と喚き、頭に手をやつて立上つた。嵐のやうなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があつた。その時まで、私はうわあ[#「うわあ」に傍点]といふ自分の声を、ざあーといふもの音の中にはつきり耳にきき、眼が見えないので悶えてゐた。しかし
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