誰かが「空襲」と叫ぶ。「白いものを着たものは木蔭へ隠れよ」といふ声に、皆はぞろぞろ藪の奥へ匐つて行く。陽は燦々と降り灑ぎ藪の向も、どうやら火が燃えてゐる様子だ。暫く息を殺してゐたが、何事もなささうなので、また川の方へ出て来ると、向岸の火事は更に衰へてゐない。熱風が頭上を走り、黒煙が川の中ほどまで煽られて来る。その時、急に頭上の空が暗黒と化したかと思ふと、沛然として大粒の雨が落ちて来た。雨はあたりの火照りを稍々鎮めてくれたが、暫くすると、またからりと晴れた天気にもどつた。対岸の火事はまだつづいてゐた。今、こちらの岸には長兄と妹とそれから近所の見知つた顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集つて、てんでに今朝の出来事を語り合ふのであつた。
あの時、兄は事務室のテーブルにゐたが、庭さきに閃光が走ると間もなく、一間あまり跳ね飛ばされ、家屋の下敷になつて暫く藻掻いた。やがて隙間があるのに気づき、そこから這ひ出すと、工場の方では、学徒が救ひを求めて喚叫してゐる――兄はそれを救ひ出すのに大奮闘した。妹は玄関のところで光線を見、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかつた。みんな、はじめ自分の家だけ爆撃されたものと思ひ込んで、外に出てみると、何処も一様にやられてゐるのに唖然とした。それに、地上の家屋は崩壊してゐながら、爆弾らしい穴があいてゐないのも不思議であつた。あれは、警戒警報が解除になつて間もなくのことであつた。ピカツと光つたものがあり、マグネシユームを燃すやうなシユーツといふ軽い音とともに一瞬さつと足もとが回転し、……それはまるで魔術のやうであつた、と妹は戦きながら語るのであつた。
向岸の火が鎮まりかけると、こちらの庭園の木立が燃えだしたといふ声がする。かすかな煙が後の藪の高い空に見えそめてゐた。川の水は満潮の儘まだ退かうとしない。私は石崖を伝つて、水際のところへ降りて行つてみた。すると、すぐ足許のところを、白木の大きな函が流れてをり、函から喰み出た玉葱があたりに漾つてゐた。私は函を引寄せ、中から玉葱を掴み出しては、岸の方へ手渡した。これは上流の鉄橋で貨車が顛覆し、そこからこの函は放り出されて漾つて来たものであつた。私が玉葱を拾つてゐると、「助けてえ」といふ声がきこえた。木片に取縋りながら少女が一人、川の中ほどを浮き沈みして流されて来る。私は大きな材木を選
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