やうになつた。)暫くして、茶碗を貰ふと、私はさつきの兵隊のところへ持運んで行つた。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵が膝を屈めて、そこで思ひきり川の水を呑み耽つてゐるのであつた。
 夕闇の中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕餉の焚き出しをするものもあつた。さつきから私のすぐ側に顔をふわふわに膨らした女が横はつてゐたが、水をくれといふ声で、私ははじめて、それが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱へて台所から出かかつた時、光線に遭ひ、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄達より一足さきに逃げたが、橋のところで長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱へてこの河原に来てゐたのである。最初顔に受けた光線を遮らうとして覆うた手が、その手が、今も捩ぎとられるほど痛いと訴へてゐる。
 潮が満ちて来だしたので、私達はこの河原を立退いて、土手の方へ移つて行つた。日はとつぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ」と狂ひまはる声があちこちできこえ、河原にとり残されてゐる人々の騒ぎはだんだん烈しくなつて来るやうであつた。この土手の上は風があつて、睡るには少し冷え冷えしてゐた。すぐ向は饒津公園であるが、そこも今は闇に鎖され、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであつた。兄達は土の窪みに横はり、私も別に窪地をみつけて、そこへ這入つて行つた。すぐ側には傷ついた女学生が三四人横臥してゐた。
「向の木立が燃えだしたが逃げた方がいいのではないかしら」と誰かが心配する。窪地を出て向を見ると、二三丁さきの樹に焔がキラキラしてゐたが、こちらへ燃え移つて来さうな気配もなかつた。
「火は燃えて来さうですか」と傷ついた少女は脅えながら私に訊く。
「大丈夫だ」と教へてやると、「今、何時頃でせう、まだ十二時にはなりませんか」とまた訊く。
 その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかつたサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまだ熾んに燃えてゐるらしく、茫とした明りが川下の方に見える。
「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。
「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合掌してゐる。
「火はこちらに燃えて来さうですか」と傷ついた少女がまた私に訊ねる。
 河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊
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