稲妻
原民喜

 疲れてゐるのに芳子の神経はたかぶってゐた。遙か窓の下の街の方では自動車がひっきりなしに走ってゐた。時々省線電車のゴーと云ふ響も耳についた。身動きすればベットは無気味に軋った。すやすや睡ってゐるらしい夫を起してはと思って芳子はぢっと悶えを耐へた。何が耐らないと云ふのでもないが、芳子は漠然とした不安に襲はれてゐた。東京に来てまだ三日目なのに、あんまりあちこち見物に出歩きすぎて疲れてしまったのかも知れない。
 ふと、芳子は今急に敵の飛行機が襲来して来てここのホテルに爆弾を投じはすまいかと思った。それは今日万国婦人子供博覧会の国防館で観た空中戦の模型が頭に残ってゐるためだった。が、さう思ひながらも不安は減じなかった。糜爛性ガス、催涙性毒ガス、窒息性毒ガス、あのガラスの筒が投下された瞬間を想像するとぞっとしてしまふのだった。
 こんなに私は不安なのに、どうして夫は平気で睡ってゐるのだらう――芳子は男と云ふものの落着きを今更不思議さうに眺めて、それにぢっと信頼したくなった。そして気を紛らすために今日三越で購ったショールの色合ひを想ひ出してみた。が、いけなかった。あのショールも戦争の時にはレイヨンとして役に立つと今日国防館で教はったのだった。戦争! 戦争! 戦争! 何処かで飛行機の唸りが聞えるやうな気がした。芳子は夫の片手をぢっと握り締めて顔を枕に打伏せた。

 誰かが部屋に侵入して来たらしかった。それはホテルのボーイの筈だったが、手にピストルを持ってゐる。芳子は父と一緒だから大丈夫だと思って父の方へ寄添はうとした。が、父は一向に平気で何ともしてくれない。ギャングは芳子には目もくれず父を狙ってゐた。あっ何とかして! と叫んでも父はぼんやりしてゐる。そのうちに気がつくと、父の筈の男は芳子の夫なのだ。しかも夫はぼんやりしてギャングのする儘にまかせてゐる。

 ふと芳子は夫の声で目を覚した。
「どうしたのだ。」
「あ、怕かった。私何か云ってて。」
「何だか魘されてゐたよ。」
「あ、怕かった、賊が来た夢みたの。淋しい、淋しい……」芳子は夫の肩に手を掛けて顔を埋めた。夫は睡ってゐた筈なのにどうして目が覚めたのだらう。やはり夫も何か不安に襲はれて安眠は出来なかったのかしら――と芳子はさっきの訳の解らぬ不安をまた思ひ出した。
 朝になると早くから街は騒がしくて、すぐに目が覚め
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