齔lは鷲が三羽北を指して飛んでいるのを見た、が大きさは別に普通の鷲と変ったところはなかったと答えます。もっとも非常に高く飛んでいたので小さく見えたのだろうとガリヴァは考えるのですが、これは少し念が入りすぎているようです。そして、こんな手法は馬の国からの帰航では更らに陰欝の度を加えてくりかえされています。ここでは人間社会から逃げようと試みるガリヴァの悲痛な姿がまざまざと目に見えるほど真に迫って訴えて来ますが、奇妙なのは船長とガリヴァとの問答です。はじめ彼の話を疑っていた船長が、そういえばニューホランドの南の島に上陸して、ヤーフそっくりの五六匹の生物を一匹の馬が追いたててゆくのを見たという人の話をおもいだした、という一節があります。実に短かい一節ながら、ここを読まされると、何かぞっと厭やなものがひびいて来ます。何のために、こんな念の入ったフィクションをつくらねばならなかったのかと、僕には、何だか痛ましい気持さえしてくるのです。
身振りで他国の言葉を覚えてゆくとか、物の大小の対比とか、そういう発想法はガリヴァ全篇のなかで繰返されています。この複雑な旅行記も、結局は五つか六つの回転する発想法に分類できそうです。だが、それにしても、一番、人をハッとさすのは、ヤーフが光る石(黄金)を熱狂的に好むというところでしょう。僕は戦時中、この馬の国の話を読んでいて、この一節につきあたり、ひどく陰惨な気持にされたものです。陰欝といえば、この物語を書いた作者が発狂して、死んで行ったということも、ゴーゴリの場合よりも、もっと凄惨な感じがします。
また僕は五年前のことをおもい出しました。原爆あとの不思議な眺めのなかに――それは東練兵場でしたが――一匹の馬がいたのです。その馬は負傷もしていないのに、ひどく愁然と哲人のごとく首をうなだれていました。
一匹の馬
五年前のことである。
私は八月六日と七日の二日、土の上に横たわり空をながめながら寝た。六日は河の堤のクボ地で、七日は東照宮の石垣の横で、――はじめの晩は、とにかく疲れないようにとおもって絶対安静の気持でいた。夜あけになると冷え冷えした空が明るくなってくるのに、かすかなのぞみがあるような気もした。しかし二日目の晩は土の上にじかに横たわっているとさすがにもう足腰が痛くてやりきれなかった。いつまでこのような状態がつづくのかわからないだけに憂ウツであった。だが周囲の悲惨な人々にくらべると、私はまだ幸福な方かもしれなかった。私はほとんど傷も受けなかったし、ピンと立って歩くことができたのだ。
八日の朝があけると私は東練兵場を横切って広島駅をめざして歩いて行った、朝日がキラキラ輝いていた。見渡すかぎり、何とも異様なながめであった。
駅の地点にたどりつくと、焼けた建物の脇で、水兵の一隊がシャベルを振り回して、破片のとりかたづけをしていた。非常に敏ショウで発ラツたる動作なのだ。ザザザザと破片をすくう音が私の耳にのこった。そこから少し離れた路上にテーブルが一つぽつんと置いてある。それが広島駅の事務所らしかった。私はその受付に行って汽車がいま開通しているものかどうか尋ねてみた。
それから私は東照宮の方へ引かえしたのだが、ふと練兵場の柳の木のあたりに、一匹の馬がぼんやりたたずんでいる姿が目にうつった。これはクラもなにもしていない裸馬だった。見たところ、馬は別に負傷もしていないようだが、実にショウ然として首を低く下にさげている。何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿なのだ。
私は東照宮の境内に引かえすと石垣の横の日陰に横臥していた。昼ごろ罹災証明がもらえて戻ってくると今度は間もなく三原市から救援のトラックがやって来た。
私は大きなニギリ飯を二つてのひらに受けとって、石垣の日陰にもどった。ひもじかったので何気なく私は食べはじめた。しかしふとお前はいまここで平気で飯を食べておられるのか、という意識がなぜか切なく私の頭にひらめいた。と、それがいけなかった。たちまち私は「オウド」を感じてノドの奥がぎくりと揺らいできた。
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ガリヴァの歌
必死で逃げてゆくガリヴァにとって
巨大な雲は真紅に灼けただれ
その雲の裂け目より
屍体はパラパラと転がり墜つ
轟然と憫然と宇宙は沈黙す
されど後より後より迫まくってくる
ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪
いかなればかくも生の恥辱に耐えて
生きながらえん と叫ばんとすれど
その声は馬のいななきとなりて悶絶す
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底本:「ガリバー旅行記」講談社文芸文庫、講談社
1995(平成7)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「定本原民喜全集2」青土社
1978(昭和43)年9月
※底本の奥付には、原著作者の表示はありません。し
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