オて人間より馬の方がずっと立派だと思うようになります。だから、この国を彼が追放されたときの嘆きは大へんなものです。それから久し振りで人間と出会うと、ガリバーはたまらなくなって逃げ出そうとします。しかし、人間より馬の方が立派だなど、少し情ない話ではありませんか。ほんとにこれは情ない、奇妙な話にちがいありません。けれども、この話は奇妙でありながら、何か人の心に残るものがあります。読んだら忘れられない話のようです。

 では、こんな不思議な話を書いた人は、一たいどんな人なのでしょうか。
 今からおよそ二百年ばかり前、ジョナサン・スイフトという人がこれを書いたのです。彼は一六六七年、アイルランドのダブリンに生れました。頭の鋭い、野望家でした。はじめは、ロンドンに出てしきりに政治問題に筆を向け、政党にも加わっていました。生れつき諷刺の才能に恵まれていたので、『書物の戦争』とか『桶物語』とかいう本を書いて、当時の社会を皮肉っていました。しかし、後にはアイルランドに引っ込んで、そこで、教会の副監督をしながら、淋しく暮していたのです。
 さて、この『ガリバー旅行記』は一七二六年に書き上げられました。ちょうど、彼が五十九の年で、アイルランドに引退してから十四年目のことでした。
 痛ましいことに、彼はその後、次第に気が狂ってゆきました。一七四五年、七十七歳で、この世を去りました。
 この『ガリバー旅行記』は、これまで広く世界中の人々に親しまれてきた本です。大人にも、子供にも、これくらい、よく読まれてきた本は稀《まれ》です。これからもまだ多くの人々に読まれてゆくことでしょう。


   ガリヴァ旅行記
   ――K・Cに――

 この頃よく雨が降りますが、今日は雨のあがった空にむくむくと雲がただよっています。今日は八月六日、ヒロシマの惨劇から五年目です。僕は部屋にひとり寝転んで、何ももう考えたくないほど、ぼんやりしています。子供のとき、僕は姉からこんな怪談をきかされたのを、おもいだします。ある男が暗い夜道で、怕《こわ》い怕いお化けと出逢う。無我夢中で逃げて行く。それから灯のついた一軒屋に飛込むと、そこには普通の人間がいる。吻《ほっ》と安心して、彼はさきほど出逢ったお化けのことを相手に話しだす。すると、相手は「これはこんな風なお化けだろう」という。見ると、相手はさっきのお化けとそっくりなのだ。男はキャッと叫んで気絶する。――この話は子供心に私をぞっとさすものがありました。一度遇ったお化けに二度も遇わすなど、怪談というものも、なかなか手のこんだ構成法をとっているようです。
 先日から僕はスゥイフトのガリヴァ旅行記をかなり詳しく読み返してみました。小人国の話なら子供の頃から聞かされています。夏の日もうっとりして、よく僕は小人の世界を想像したものです。子供心には想像するものは、実在するものと殆ど同じように空間へ溶けあっていたようです。そういえば、少年の僕は、船乗りになりたかったのです。膝をかかえて、老水夫の話にきき入っている少年ウォター・ロレイの絵を御存知ですか。あの少年の顔は、少年の僕にとても気に入っていたのです。

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地図を愛し版画を好む少年には宇宙はその広大なる食慾に等し。
ああ! ランプの光のもと世界はいかに大なることよ!
されど追憶の眼に映せばいかばかり小なる世界ぞ!
[#ここで字下げ終わり]

 ボードレールは「航海」という詩でこう嘆じていますが、僕自身は今でもまだ人生の航海を卒業していない人間のようです。
 しかし、近頃の新聞記事を読むと、何だか、この地球はリリパットのように、ちっぽけな存在に思えて来るのです。卵を割って食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきかと、二つの意見の相違から絶えず戦争をくりかえさねばならないほど、小っぽけな世界に……
 だが、小人国から大人国、ラピュタ、馬の国と、つぎつぎに読んで行くうちに、僕はもっとさまざまのことを考えさせられました。この四つの世界は起承転結の配列によって、みごとに効果をあげているようですが、僕を少しぞっとさせるのは、あの怪談に似た手のこんだ構成法でした。
 小人国からの帰りに、ガリヴァは船長にむかって体験談をすると、てっきり頭がどうかしていると思われます。そこでポケットから小さな牛や羊をとり出して見せるのです。そして、その豆粒ほどの家畜をイギリスに持って帰って飼ったなどというところは、まだ軽い気分で読めます。しかし、大人国からの帰りには、ガリヴァは箱のなかにいて、鷲にさらわれて海に墜されて船で救われるのですが、ここでも船員たちとガリヴァとの感覚がまるで喰いちがっています。最初私を発見したとき何か大きな鳥でも飛んでいなかったかと、ガリヴァが訊ねると、船員の
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