速度といえば、やはり石川淳の『明月珠』『焼跡のイエス』などを思い浮かべます。あのピンと緊張した極から極へまっしぐらに読者を追いつめてゆく手は、何というスタイルの魔力なのでしょう。この人はもう身から出た錆を身につけた独自の風格さえあって、なかなかちょっとかなわないようです。伊藤整の鳴海仙吉ものも時々、私をハッとさせます。これは自意識の処理、小説叙法の装置――などと云うと変てこですが――について新分野を拓いてゆくものではないでしょうか。
 丹羽文雄の『蕩児』や船山馨の『現在』を読むと、デフォルメされた世相が一応巧みにひびいて来ます。ことに船山馨の場合、烈しい自虐の調子が人を惹きつけるのですが、それでいて、読後の物足りなさ、うそ寒さは一体どういう訳なのでしょう。
『近代文学』創刊号以来、毎号執筆している埴谷雄高の『死霊』には、この作者のその身魂を投じて悔いない心意気につくづく頭がさがります。これこそは日本に嘗てなかった小説の世界を築くものでしょう。今迄読んだ部分だけでも、作中人物の対話の嶄新さ、夢や狂気にまで滲透してゆく心理の翳など大変なものですが、現在のような環境であのような仕事を続けて行くということは、殆ど言語に絶する忍耐を要する業かもしれません。そういえば、これは小説ではないが、戦時中黙々として『戦争と平和論』を書きつづけた本多秋五も偉い仕事をしたものです。
 その他まだ私の目に触れた範囲で期待している人に馬淵量司、鈴木重雄などがあり、未知数ながら来年あたりから活躍するだろうと思える人に若尾徳平、野田開作などがあります。
 サルトルの『嘔吐』を読んだ感銘もなかなか忘れ難いものでした。恐らく『ユリシーズ』以来久振りで私を震撼させた書ですが、このことは何も私にとって、目下流行の実存主義哲学や肉体の文学とは関係のないことですから、ここでは述べますまい。ただひそかにおもうのは、いま夢中で『嘔吐』を読んだ日本のうら若い一人の青年が、やはり根底から震撼されるとともにはじめて文学のスタートを切る気持に突きやられたのではないかということです。こんな空想が描かれてなりません。
 あれを読みこれを読み、――近頃は私も雑誌の編集をしている関係上、なま原稿だけでも二千枚は読みました――絶ゑず作家や作品名を賑やかにぐるぐる考えつづけていると、何だかのぼせ気味になってしまいます。しかし――

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