」と声をたてた。名前を呼ぶつもりで踝をかへしかけたが、直吉はその男の名前をどうしても思ひ出せなくて追ひかけて行くのを、やめてしまつた。まだ復員服の姿で素足に下駄をはいてゐた。姿は生気がなかつたが、それでも、頭髪だけは、リーゼント[#「リーゼント」は底本では「リーゼんト」]型にして、こはさうな毛は油で光つてゐた。若い兵隊だつた。六年も内地を見た事がないと云つてゐた。船で一緒になつただけの知りあひだつたが、人柄のあたゝかい兵隊だつた。その男は少しつつ遠ざかつて行く。もう二度とその男には逢へさうにもない。追ひかけて行つて肩を叩いてやりたかつたが、甲板で雀を逃がした時のやうなあきらめ方で、直吉はその男の遠ざかる後姿を凝視めたままで動かなかつた。直吉はいまではすつかり孤独の愛好者になつてゐた。その兵隊の名前さへ記憶出来なかつた忘却を、直吉は、自分でも、つくづく年を取り呆けてしまつたと苦笑した。お互ひに昔を今に呼び戻す必要はないのだ。その場の感傷で、わざわざさつぱりと、お互ひに失つた過去を、あの男の前に立つて、いまさら鏡のやうに見せ合ふ必要はないのだ。直吉は手近な所に店を出してゐる、新聞売りの女から、新聞を買つた。ストリツプシヨウの踊り子の腰みの[#「みの」に傍点]に、ローソクの火が燃えうつゝて、全身やけどをした記事が大きく載つてゐた。写真の女は若かつたが、里子と同じ年齢で、人妻であつた。S橋のつるつるした石の欄干寄りを歩きながら直吉は、このやうな女の生活もあるのかと思つた。自分の裸身を売りものにして、良人を養つてゐたのかもしれない。踊り子は、医者の談によると、助かりさうもない様子だつた。直吉はその踊り子の良人の、呆んやりした顔をしつゝこく考へてゐる。狭い階段を、踊りながら降りてゐた踊り子の腰みのに、ローソクの火がぱあつと燃えついたのを、下から見上げてゐた客は、それがさうした踊りの手なのかと、裸の焼けるのをうつとり眺めてゐたさうだが、キヤバレーと云ふものを、直吉は、一度ものぞいた事はないので知らなかつた。



底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※片仮名の拗音、促音を小書きするか否かは、底本通りとしました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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