銭に対して直吉は反抗してみたかつたのだ。現にいまも、飲んでゐるビールが百五十円も二百円もしたところでかまはなかつた。持つてゐる金を今夜、みんなつかひ果してしまひたい焦々した気持ちに追はれてゐた。前田へ半金払つた金の残りは、二万円ばかりを内ポケットに蔵ひ込んでゐる。里子に見せる気はなかつたが里子が、金で体を売る女となつてゐるからには、金で、今夜は里子と遊んでみたい毒々しさにもなつてゐた。直吉は外套のポケットから、外国製のチユウインガムが一二枚あつたのを思ひ出して、手探りでそれを出して卓子に置いた。
「別れないとは云はないさ。籍も返へしてやる。君の云ふとほりに、いまさら、二人で一軒持つてみたところで、それは形だけのものかも知れない。――電話をかけに行かなくても、もう少し、ビールを飲むのつきあつて、浅草へ行きアいゝンだらう。泊らなくてもいゝ。さつきは泊るつもりでゐたンだが、もういゝ。いゝンだよ。やつと俺も納得したンだからね、少しつきあつて行きなさい」
直吉は酔つた。寝転んで片肘ついて、卓子のコツプを手にした。里子は吻つとした表情で、手をのばして、煙草の吸殻を火鉢の灰につゝこみ、「私、可笑しくて涙が出ちやふわ」と云つた。
「何が可笑しい」
「可笑しいのよ。私の気持ちが‥‥馬鹿な女だわ」
「いま一緒にゐるの、いゝ旦那かい?」
「旦那なンかぢやないわ。部屋を借りてるだけよ。友達の家なンですけどね。そのひとの旦那が犬を飼つてるのよ。セパード専門なンだけど、とてもいゝ商売とみえて、大学生のアルバイト二人傭つてやつてるわ」
「ほう、色んな商売があるもンだな‥‥」
それにしても、誰だつて河流れのやうなものだと、直吉は、幻影だけで生きてゐる自分を、これからさき何処まで耐へられるものかどうか、不安にならないでもない。再起してみたいにもひどく無気力になつてしまつてゐる。河底に寝転んでゐた、あの男の境地に行き着くのはわけのない事だと思ひながらも、あれだけの勇気はどうしても持てなかつた。人生を空費してゐると承知してゐながら、独りだと云ふ気楽さのなかに、無気力に溺れてしまつてゐる‥‥。兵隊のユニホームを着てゐる時には、兵隊の悩みだけしか判らなかつたが、ユニホームのない、気まゝな浮世に投げ出されてみると、直吉は世の中を、瀑布のやうなすさまじい流れのやうに思つた。放り込まれて、流され、揉まれて、無の大海へ押し出されるまで、何の抵抗も出来ない芥のやうな人間群が、荒い急流に押し流されゐるのだ。
里子は動かなかつた。直吉は何も云はないで、里子の心のままに任せてゐた。軈て女中が、蒲団を敷きに来ても、里子は電話に立つ気配もない。
二人は泊つた。朝になつて、直吉は身支度をして、洗面所に立つて行つたが、タイルのはがれた、汚い洗面所の鏡に写つた、自分の顔を眺めて、自分の生涯の或る特定の時期に来てゐる男の表情を見た。歯は黄いろく煙草のやに[#「やに」に傍点]に染まり、頬や顎のあたりに、茶色の斑が浮いて、唇の色は白つぽく乾いてゐた。眼は赤くたゞれ、濃い眉だけが辛じて水々しかつた。油気のない頭髪には、窓の光線で、銀色に光つてゐた太い白毛が幾筋か飛び出してゐる。顎の張つた四角い顔である。呼吸をしてゐる鷲鼻。眼尻に小皺が寄り、見てゐて不快な顔だつた。逞ましく見えたが、長年の捕虜生活で、体は昔のやうな健康には戻れさうにもない。暖い朝であつた。便所の匂ひが激しかつた。何時も、小舎の外の井戸端で、のびのびと顔を洗つてゐる直吉には、かうした狭い便所の匂ひには、ノボオシビルスクの収容所の匂ひを思ひ出させるのだ。鏡の中の男の顔は、かつての辛酸をなめつくした自己であり、もうその顔は、自分のもとの人生へ帰還する事の出来ない不具者的な表情を持つてゐた。哀れな長い戦争だつたと思ふ。自分を支配する知覚を失つた人間の顔を、直吉は、呆然とみつめた。昨夜の里子との交渉も、自分を失望させ、里子に嘲はれるだけの痴戯にひとしいものであつたと知つた。長い戦争での、女を空想する悪い習慣が、直吉の肉体をすつかり駄目にしてしまつてゐる。街の女と交渉のある時にも、かうした淋しさはあつたが、それは里子にも同じであつたと云ふ二重の淋しさになり、汚れた鏡の中の顔を、直吉はぢいつと覗き込んだ。あらゆる欲望を抑制された兵隊の、なれの果てが、そこに呆んやり立つている。「まだ若いのに、どうしたのよ」と里子に云はれた言葉が、直吉には耳について離れない。 ――戦争のさなかにも、また、長い捕虜生活中にも、突然精神錯乱をおこす兵隊があつたが、砲弾炸裂の衝撃や、囚れのなかの死の恐怖や、仲間同士の葛藤なぞが原因で、ふつと狂ひ出す兵隊があつた。直吉は、自分もまた戦争精神病の一種になつて戻つて来たのではないかといふ、地滑りのやうな不安を持つて鏡を見た。女へ対する本能は、頭の中で暴れまはつてゐながら肉体は仮死状態に陥つてしまつてゐた。継母の精神分裂病に何処か似通うた戦争の被害だと、直吉はいまこそはつきりと思ひ知らされたのだ。衛生兵であつた直吉は、多くの戦争精神病も見て来たが、それは錯乱状態になつた兵隊のみを精神病と思ひ過してゐたに過ぎない。自分のやうなものはいつたい何と云ふのであらうかと、直吉は、耳の底にさうした患者の蜂の巣をこはしたやうな唸り声のするのを、うゝん、うゝんと聴いた。耳を振つてみる。戦場での色々な音がかすかに聴える。収容所でも年を取つた兵隊が激しいノルマに耐へられなくてうつ[#「うつ」に傍点]病になつて行き、ひどい取越苦労にとりつかれて、自殺したものも幾人かあつた。
直吉は、厭な思ひ出を払ひのけるやうに、満々と水を張つた洗面器に、顔をつゝこんだ。しびれるやうに水は肌に沁みる。その水の中で、どれだけ息が出来ないかと、呼吸を抑制してみる。広告マンのあの眼のつぶり方が、瞼を走つた。呼吸の抑制は息苦しくなり、痛烈な孤独が直吉の瞼に涙となつて突きあげて来た。ざつと顔をあげて、濡れた顔を、汚れたハンカチで拭いた。眼が腫れぼつたく、瞼が赤い。洗面器の水をこぼして、直吉は暫く窓へ寄つて、外気をいつぱいに吸つてみた。まるで秋のやうに青い空である。物置の迫つた狭い庭の、二つ三つ並べられた植木鉢に、みせばや草がもう芽吹いてゐた。物置の隅に、柿の皮をむいたやうなねぢくれかたで、月経帯が干してあつた。
直吉が二階へ上つて行くと、里子はいま起きたところと見えて、ぱあつと派手な水色の長襦袢に、伊達締めをきゆうきゆと音をさせて巻きつけてゐた。帯のない腰の線が馬鹿に大きくまるく見える。里子は何でもなかつたやうに、直吉に「何時頃かしら‥‥」と聞いた。
部屋の中は、二つの寝床でいつぱいだつた。直吉は廊下の障子を開け、ぽかぽかと陽の射してゐるカーテンをたぐり寄せた。隣りは質屋とみえて新しく壁を塗つた倉があり、夜露のぎらぎら光つた屋根瓦に雀が忙はしく飛び交うてゐた。省線の音が地響して走つて行く。草履の音をさせて、昨夜の少女が上つて来ると、取り乱した蒲団を、何の表情もなくさつさとたゝみ始めた。着物を着終つた里子が、階下へ降りて行つた。廊下の硝子戸を開けて、直吉は欄干に凭れて暫く外を眺めてゐたが、淡い春の雲が小さい太陽を囲んで湧き立つて見えた。直吉は心の中に苛立たしいものを感じてゐる。淡い雲の裏側に、鋸型の黒い山影のやうな雲も浮き出てゐた。直吉は、広い海の上の島影を見るやうな気がした。ナホトカを出た船の上で、乾パンの屑を木箱の底であさつてゐた雀を、直吉はふとみつけて捕へた事がある。あまりの愛らしさに、誰か飼ふものはないかと、船員の部屋の方へ持つて行つたが、扉を開けると同時に、さつと二三人の船員の眼が鋭く兵隊の直吉を見上げて、こゝへ断りなく這入らないでくれと云つた。卓子の上には、皿に山盛の白い飯が並んでゐるのを、ちらと直吉は眼に掠めた。雀を飼つてくれませんかと云ふどころのよゆうはなかつたのだ。直吉は雀を持つたまゝ、甲板へ出て行き、ぢいつと掌の雀を観察した。不安に怯えて、雀は激しく息づいてゐる。時々眼をつぶる度に、小さい眼に白い輪がかぶさつた。にぶいオレンヂ色の太陽の反射を受けて、海は鉛色に光つてゐる。頬を刺すやうな冷たい海風に、掌の雀の羽根は素直に波を打つた。掌にうづくまつたなり雀はぢいつと忙はしく呼吸をしてゐる。柔軟な生物のあたゝかさが、直吉の荒んだ心をゆすぶつた。ぎゆつと握り締めて、一思ひに殺してしまひたい瞬間があつた。雀を握り締めたい衝動は、女を抱きすくめたい衝動にも似てゐる。消えかけた情熱を再び掻きおこされ、抑制の連続のなかに、すつかり灰になつたあらゆる慾望に、火を焚きつけられたやうな胸のときめきだつた。直吉の皮膚は熱くしびれた。――直吉は、里子に逢へる愉しみだけを考へてゐたのだ。東京は廃墟になつてゐると聞かされてゐたが、千駄ヶ谷のあの二階で、里子は、直吉の帰へりを待つてゐるものと空想してゐた。何年間かの生活の支へはどうしてゐるだらうかとは考へなかつた。出征した時のまゝの、部屋のありさまが、思ひ出されるだけである。出征の前夜、取り乱して泣いた里子のしみじみした姿だけが、直吉には船の中での心の支へでもあつた。
雀をそつと握り締めてみたり、ゆるめてみたりして、直吉は雀を熱心に観察するのだ。広い海の上をのろのろと船は内地へ近づいてゐる。黄泉のやうだつた長い捕虜生活から解放されて、いまこそ帰還するのだとは思ひながらも、直吉は、あまりの船脚の遅いのにまた、何処かへ運び去られるのではないかと錯覚した。直吉は躑踞んで、荒い風の吹く甲板に雀を放してやつた。雀は突差によろめき、飛翔の呼吸を計つてゐたが、一二度羽根を風に向けて拡げ、すぐその姿勢のまゝさつとマストの方へ飛び去つて行つた。何処から迷ひこんだ雀かは判らなかつたが、かうした小動物の不思議な生命を、直吉は愛らしいものに思つた。あの時、海の上を流れてゐた雲が、いまこゝに立つてゐる自分をみとめたならば、雲は直吉に向つて、兵隊のなれの果てを不憫に思つてくれるだらうかと空想した。
まづい朝飯を食つて、直吉が大塚の駅に里子を送つて行つた時は、もう十時を過ぎてゐた。
「判はお前がつくつて、勝手に押していゝンだぜ‥‥。むつかしい事があつたら、またその時は出向いて行つてやる」
直吉は、昨夜から、里子にいくらかの金を渡してやりたいと思ひながら、出しそびれてゐた。慾張つて出したくないのではなかつたが、金を渡す機会を失つてしまつてゐたのだ。――直吉は省線で有楽町へ出て行つた。籍の事にこだはつてゐる里子の生活が、或ひは健実な結婚の相手をみつけたのかも知れないと思ひ、もうどうでもいゝ事だと投げやりになつて来る。――前田の事務所へ寄つて、今日来てゐる品物を分けて貰はなければならぬと、また、ぶらぶらと橋の方へ歩いて行つたが、群集の流れは昨日も今日もとゞまるところがなかつた。橋の上は肩をすれすれにして歩くやうな人の波である。前田の細君の出産祝ひを買ひたいと思つた。S橋の上から水の上を覗いたが、今日はあの広告マンは浮いてゐなかつた。汚れた石油色の水が、河底をたづな模様に流れてゐた。街の雑沓はひしめき溢れて、少しも形に変化がないやうだつたが、よく見てゐると、水が流れ込むやうに、次から次と人の顔は変つてゐた。公園寄りの橋のたもとには、学生姿のアルバイトが、ノートや大きい風船を手にして呆んやり立つてゐた。公園ぎはの交番では、腰にピストルのケースをさげた若い巡査が、四五人寄りあつて、ものものしい表情で話しあつてゐる。捕虜生活で考へてゐた程の廃墟ではなかつたのだが、何となく四囲は昔とは変つて来てゐた。三角くじを売る派手なペンキ塗りの小舎のまはりは、花吹雪のやうにこまかい紙片が散らかつてゐる。にぶい朝の太陽が黄いろい反射を照りかへして、珍しくぽかぽかと暖い。すれ違ふ男も女も、無意識に口辺に嘲笑的な小皺を寄せて歩いてゐた。その表情はどれもこれも、精神分裂の継母の表情に似ている。その通行人の群の中に、直吉はふつと、一緒の船で戻つて来た、兵隊の姿をみとめた。「あツ
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