の大海へ押し出されるまで、何の抵抗も出来ない芥のやうな人間群が、荒い急流に押し流されゐるのだ。
里子は動かなかつた。直吉は何も云はないで、里子の心のままに任せてゐた。軈て女中が、蒲団を敷きに来ても、里子は電話に立つ気配もない。
二人は泊つた。朝になつて、直吉は身支度をして、洗面所に立つて行つたが、タイルのはがれた、汚い洗面所の鏡に写つた、自分の顔を眺めて、自分の生涯の或る特定の時期に来てゐる男の表情を見た。歯は黄いろく煙草のやに[#「やに」に傍点]に染まり、頬や顎のあたりに、茶色の斑が浮いて、唇の色は白つぽく乾いてゐた。眼は赤くたゞれ、濃い眉だけが辛じて水々しかつた。油気のない頭髪には、窓の光線で、銀色に光つてゐた太い白毛が幾筋か飛び出してゐる。顎の張つた四角い顔である。呼吸をしてゐる鷲鼻。眼尻に小皺が寄り、見てゐて不快な顔だつた。逞ましく見えたが、長年の捕虜生活で、体は昔のやうな健康には戻れさうにもない。暖い朝であつた。便所の匂ひが激しかつた。何時も、小舎の外の井戸端で、のびのびと顔を洗つてゐる直吉には、かうした狭い便所の匂ひには、ノボオシビルスクの収容所の匂ひを思ひ出させるのだ。鏡の中の男の顔は、かつての辛酸をなめつくした自己であり、もうその顔は、自分のもとの人生へ帰還する事の出来ない不具者的な表情を持つてゐた。哀れな長い戦争だつたと思ふ。自分を支配する知覚を失つた人間の顔を、直吉は、呆然とみつめた。昨夜の里子との交渉も、自分を失望させ、里子に嘲はれるだけの痴戯にひとしいものであつたと知つた。長い戦争での、女を空想する悪い習慣が、直吉の肉体をすつかり駄目にしてしまつてゐる。街の女と交渉のある時にも、かうした淋しさはあつたが、それは里子にも同じであつたと云ふ二重の淋しさになり、汚れた鏡の中の顔を、直吉はぢいつと覗き込んだ。あらゆる欲望を抑制された兵隊の、なれの果てが、そこに呆んやり立つている。「まだ若いのに、どうしたのよ」と里子に云はれた言葉が、直吉には耳について離れない。 ――戦争のさなかにも、また、長い捕虜生活中にも、突然精神錯乱をおこす兵隊があつたが、砲弾炸裂の衝撃や、囚れのなかの死の恐怖や、仲間同士の葛藤なぞが原因で、ふつと狂ひ出す兵隊があつた。直吉は、自分もまた戦争精神病の一種になつて戻つて来たのではないかといふ、地滑りのやうな不安を持つて鏡を見た。女へ対する本能は、頭の中で暴れまはつてゐながら肉体は仮死状態に陥つてしまつてゐた。継母の精神分裂病に何処か似通うた戦争の被害だと、直吉はいまこそはつきりと思ひ知らされたのだ。衛生兵であつた直吉は、多くの戦争精神病も見て来たが、それは錯乱状態になつた兵隊のみを精神病と思ひ過してゐたに過ぎない。自分のやうなものはいつたい何と云ふのであらうかと、直吉は、耳の底にさうした患者の蜂の巣をこはしたやうな唸り声のするのを、うゝん、うゝんと聴いた。耳を振つてみる。戦場での色々な音がかすかに聴える。収容所でも年を取つた兵隊が激しいノルマに耐へられなくてうつ[#「うつ」に傍点]病になつて行き、ひどい取越苦労にとりつかれて、自殺したものも幾人かあつた。
直吉は、厭な思ひ出を払ひのけるやうに、満々と水を張つた洗面器に、顔をつゝこんだ。しびれるやうに水は肌に沁みる。その水の中で、どれだけ息が出来ないかと、呼吸を抑制してみる。広告マンのあの眼のつぶり方が、瞼を走つた。呼吸の抑制は息苦しくなり、痛烈な孤独が直吉の瞼に涙となつて突きあげて来た。ざつと顔をあげて、濡れた顔を、汚れたハンカチで拭いた。眼が腫れぼつたく、瞼が赤い。洗面器の水をこぼして、直吉は暫く窓へ寄つて、外気をいつぱいに吸つてみた。まるで秋のやうに青い空である。物置の迫つた狭い庭の、二つ三つ並べられた植木鉢に、みせばや草がもう芽吹いてゐた。物置の隅に、柿の皮をむいたやうなねぢくれかたで、月経帯が干してあつた。
直吉が二階へ上つて行くと、里子はいま起きたところと見えて、ぱあつと派手な水色の長襦袢に、伊達締めをきゆうきゆと音をさせて巻きつけてゐた。帯のない腰の線が馬鹿に大きくまるく見える。里子は何でもなかつたやうに、直吉に「何時頃かしら‥‥」と聞いた。
部屋の中は、二つの寝床でいつぱいだつた。直吉は廊下の障子を開け、ぽかぽかと陽の射してゐるカーテンをたぐり寄せた。隣りは質屋とみえて新しく壁を塗つた倉があり、夜露のぎらぎら光つた屋根瓦に雀が忙はしく飛び交うてゐた。省線の音が地響して走つて行く。草履の音をさせて、昨夜の少女が上つて来ると、取り乱した蒲団を、何の表情もなくさつさとたゝみ始めた。着物を着終つた里子が、階下へ降りて行つた。廊下の硝子戸を開けて、直吉は欄干に凭れて暫く外を眺めてゐたが、淡い春の雲が小さい太陽を囲んで湧き立つて見え
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