桃色は、直吉の心をなごやかにしてくれた。夜業に追はれて疲れた日なぞは、床に就いてからもしつこく里子の影像を描いて、ひそかにさうした夢を愉しむやうになり、翌る朝はきまつて頭の芯がづきづきした。直吉は工場で配給係りの手伝ひもしてゐたので、上手に配給物品をごまかす事も覚えて、ゴム長を三足ほどくすねて、それを売り飛ばして、六月の或る夜、浅草に出掛け、何時か里子にここへ呼んでほしいと云はれた志茂代と云ふ待合へ行つてみた。[#「。」は底本では「、」]雀を呼んでくれと頼むと、約束の座敷に行つてゐるので、他の妓はどうだと聞かれたが、直吉は里子の雀が来るまではどうしても待つと云つて、女中相手に独りで酒を呑んだ。電灯に黒い覆ひがかゝり、窓の障子にも黒い紙の幕がさがつてゐる。十一時頃里子はやつて来た。涼しさうな水色の着物を着て、洋髪に結つてゐた。
「あら、酒匂さんだつたの。‥‥誰かと思つたわ。よく来てくれたのね‥‥」
里子は酒に酔つてゐるとみえて、蓮つぱに直吉のそばに坐つて、両手を直吉の腿の上へ置いた。そして下からぢいつと直吉を覗き込むやうにした。直吉は腿が焼けつくやうだつた。直吉は照れて、まともに里子の顔を見る事が出来ない。白い指にルビーの指輪が光つてゐるのを直吉は掠めるやうに眼にとめて妬ましかつた。職業的な本能で、里子は浮はの空で、何とかだから憎らしいわとか、何とかだから泊つていらつしやいねとか云つて、直吉の腿を時々きつくゆすぶるのである。雨もよひのひつそりとした晩であつた。食べものも乏しくなつてゐたが、それでも、色の悪い刺身やコロツケが二人の前へ運ばれて来た。直吉は初めての客だつたので、部屋代や料理や酒の代を、里子に云はれて前金で払はさせられた。
「泊つて行く」
「あゝ」
「ぢやア、私、お約束のお座敷断つて来るわね。病気だつて云つてくればいゝから‥‥」
さう云つて、里子は階下へ降りて行つたが、暫くして、買物籠のやうなものを持つて二階へ上つて来た。軈て、女中が次の間で蒲団を敷いてゐる様子だつたが、女中が、また泊り料の前金を里子の口を借りて催足[#「催足」はママ]した。泊り料を払つて、直吉が便所へ立つて行くと、里子がすぐついて来る。直吉は、かうした場所へ来るのは初めてだつたが、心中ひそかに仲々金のかゝる処だと思ひ、これでは、どんなに里子に逢ひたくても、めつたに来られる場所ではないと淋しく思つた。寝巻もなかつたので、直吉は襯衣一枚で蒲団にもぐり込んだ。むし暑い夜だつたので、酒に酔つた体には、人絹の蒲団が冷々して気持ちがよかつた。里子は物馴れた手つきで、買物籠から、モンペ一揃ひを出して枕元に並べ、赤い花模様の長襦袢姿になり、電灯を消して直吉の蒲団へ這入つて来た。直吉は、浮舟楼での冨子との交渉を思ひ出してゐた。因縁らしいものを感じるのだ。妙なめぐりあひであり、あの若松町からのつながりが、今日まで、何処かで結ばれてゐたのだと不思議な気持ちだつた。灯火の消えた真暗いなかで、直吉はむせるやうな女の匂ひを嗅いでゐた。どの女も、蒲団の中の匂ひは同じなのだなと、直吉は、遠く杳かに、どよめくやうな、万歳々々の声を耳にしてゐた。また、何処かで出征があるのだらう‥‥。夜まはりの金棒を突く金輪の音がじやらんじやらんと枕に響いて、このごろは、かうした花柳の巷も、早くから雨戸を閉してしまふのであらうかと佗しく思はれる。暗闇の中で話をしてゐると、里子の声が冨子の声音にそつくりだつた。里子は、何を思つてか、
「戦争つて厭だわ。どうして、こんなに長い戦争なンか始めたンでせうね。いゝ着物も着られないし、代用食ばつかり食べて、何がよくて戦争なンかするンでせう? 私達も、二三日して、水兵の制服のテープかゞりに勤労奉仕に行くンだけど、くさくさしちやふわ‥‥」
と、云つた。
「ねえ、私のうちに松葉さんつて姐さんがゐたのンだけど、此間、川治温泉で兵隊さんと心中しちやつたのよ。新聞には出なかつたけれど、松葉さんの死骸引取りに行つたうちのかあさんの話では、とても可哀想だつたつて云つてたわ。遺書も何もなくつて、松葉さんが刀で乳のとこ突かれてるし、軍服ぬいで、襯衣一枚になつてる兵隊さんは、首をくゝつてたンだつて、雑木林で死んでたンですよ‥‥二人とも勇気があつていゝわね。――松葉姐さんは、前からよく死にたいつて云つてたンだけど、本当にやつちやつたのね。兵隊さんは赤羽の工兵隊の人ですつて、お家は商売してるつて云つてたけど、何屋さんなンだか。‥‥雑木林のなかの一重の桜の花が、薄い硝子の破片をくつゝけたみたいにびつちり咲いてたンですとさ。‥‥とても哀れだつたつて。憲兵隊も来たりして、誰も寄せつけない程きびしかつたつて話なのよ‥‥。でも、二人とも、死んぢやつたから本望だわね。二人はいゝ気味だと云つてるでせ
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