出して行きたかつたのだ。二人が残されるとなると、差づめ困るのは父かも判らない。継母は物乞ひしても何とかして生きてゆけるだらうと思へた。犬猫の小便臭い匂ひが小舎のなかにこもつてゐる。継母は時々体の掻ゆさにぶるぶると身震ひしてゐる。昔は継母の若さが気に食はなかつたが、いまでは、汚れて泥々になつてゐる継母の寝姿が、神々しくも感じられた。継母に向つて、あの時感じた一瞬の悪魔的な気持ちが、あゝ何でもなくてよかつたと、直吉は苦笑してゐる。
「仲々死ぬやうな顔ぢやないね」
冗談めかしく云つて、直吉は、生きるだけ生きて、この落下してゆく社会とともに、継母は継母の未来を持つた方がいゝと投げやりな事も考へる。
直吉は、二本目のビールをコツプについで、様々な事を考へた。里子は、電話を掛けに行きたいらしく、そはそはしてゐる。直吉は今夜こそ、里子に向つて恨みを晴らしたい気がしてゐた。賠償を取りたててさつぱりと、籍を戻してしまふ気だつた。今日見た河底の広告マンの姿が瞼に焼きついて離れなかつた。橋の上から、弥次馬が大勢のぞきこんでゐたが、結局は自分達も、生きながらの河流れの広告マンと少しも変つてゐない気がした。このやうな見本があると云ふ姿を、世界に示してゐるやうな、一つの民族の広告マン振りが聯想されて、それに就いての自覚もない、高見の見物衆の心理が、直吉には、をかしくてならないのだ。有害無益な群衆を尻目に、泥河に寝転んでゐるあの広告マンの姿は、直吉には深く印象づけられた。あすこまで落ちこんで初めて平和な境地が発見出来るのかも知れない。流れる雲に愛撫されるやうに、水に写つた雲の上に、悠々と寝転んで、あの広告マンは灯のついた食卓に待つてゐる幾人もの子供の優しい声を聞いてゐるのかも知れない。「待つておいで、お父さんは今日の日当を貰つて、土産を買つてやるよ‥‥」そのやうな事を考へてゐたのかも知れないのだ。細君は時計を見てゐるに違ひない。完壁[#「完壁」はママ]なものだ。野次馬は、この完壁[#「完壁」はママ]なものの風懐に触れるよりも、まづ自分はあの泥河にまではまり込まなかつた幸福感を味つてゐるに違ひない。俺はまだ、あの男よりはいゝ生活だと‥‥。
ビールの酔ひのせゐか、直吉は少しつつ昂奮して来た。甘い香水の匂ひが慾情を責めたてて来た。矢庭に直吉は手をのばして、里子の手を掴んだ。里子は吃驚したが、迷
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