あけて話してくれた。芸者になつたとは云つても 体を売るやうな芸者ではありませんよと云ふのである。舞田某の世話になつた以上、何人の肌に触れようと不貞を働いた事には変りはなかつたが、里子は別に、悪い事をしたとも思はないらしく、かへつて、直吉に触れたくない怯えたそぶりを見せた。
里子は別に許して下さいとは云はなかつたが、直吉はすべてを許して、いま、すぐ、この暗闇のなかで、里子を強く抱き締めたかつた。精神なぞはどうでもよかつた。皮膚が焼けつくやうな飢渇から、お互ひの文句はあとまはしにしたかつた。純粋無垢なぞは、直吉の方でも今はどうでもよくなつてゐる。継母の膝小僧の隙間から覗いた、あの、穴洞が、直吉の心をそゝつた。快楽の本能は、花火のやうに頭の芯から足の踝にまでしびれわたつてくる。直吉の心を見抜いた里子は、きわめて巧みに直吉の慾望をそらしにかゝつてゐる。
「もう少し待つて‥‥。ね、きつと、私、いゝ場所をみつけます。一週間したら、きつと、また昔通りになれると思ふわ‥‥」
一緒になれると云つて約束してくれた、一週間が、一ヶ月になり、一ヶ月が二ヶ月とのびのびになり、半年の月日が無為に過ぎた。逢ふたびに、里子は大胆になつて、直吉をあしらつた。半年の間に、たつた一度、無理な出逢ひをして里子を怒らせただけで、直吉は里子の心のなかに、直吉に対してはとつくの昔に冷めきつてゐるのを知らされたのだつた。職業も仲々みつけられなかつたが、それよりも、里子との同棲が、せつかちになつてゐる直吉には、何よりもの願ひだつた。里子は何時までたつても、別れませうとは云はなかつたけれども、身についた仮装で、その場しのぎに、獣と化した直吉をあしらつてゐる。直吉は素直にあしらはれた。素直にして里子に安心をさせてはゐたが、何時か恨みは達したいと胸に深くふくんでゐる。孤独だつた。その孤独さを踏み破るやうに直吉は、父や隆吉のおもはくなぞも考へようとはしない。我まゝをふるまつて、今ではゐなほつてしまつた。――直吉は偶然に、寺の住職と知りあひになり、この住職の世話で、銀座に事務所を持つてゐる前田純次の仕事を手伝ふ事になつた。表向きはネクタイや絹のハンカチの製造販売であつたが、ひそかに闇物資の売買もやつてゐた。ボストンバツクに、外国煙草や化粧品や、チヨコレートや、サツカリン、電気剃刀、砂糖、そんなものを詰め込んで、知りあひを
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